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浅草に洋食の名店が多い理由 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

浅草に洋食の名店が多い理由

日本でいちばん早く大衆文化が集まった浅草

浅草には明治・大正・昭和から続く老舗の洋食屋さんが今も多く残っています。
「浅草といえば洋食」
というイメージを持つ人も少なくありません。

では、なぜ浅草に洋食が多いのでしょうか。

浅草に洋食店が多い理由。
それは「洋食が特別な外国料理ではなく、庶民の楽しみとして根づいた街だったから」です。

明治から大正にかけて、浅草は「芝居小屋」「寄席」「映画館」などが集中した「日本最大級の娯楽の街」でした。
人が集まって、お金を使うことから、食事も 「ちょっと贅沢な食事」が求められるようになったのは、自然の流れです。

当時の「最先端の流行」に敏感な人たちが集まる浅草。
当時ハイカラ(モダン)だった西洋料理が、いち早くこの街に広まったのです。

当時の洋食は「ハンバーグ」「カツレツ」「オムライス」といったナイフとフォークの料理。
本来、西洋料理は高級なものでした。
しかし、浅草の洋食は「ご飯にお箸で食べられる」という、日本人の好みに合わせた「下町洋食」という独自に進化したのです。

「カツレツ(とんかつ)」や、パンではなくご飯を平皿に盛った「ライス」の存在、醤油ベースの隠し味などを使う「和魂洋才」のスタイルが確立されたのも浅草。
気取らず、高すぎず、家族連れでも入れて「非日常だけど手が届くごちそう」として、洋食店は受け入れられたのです。
これが浅草で、老舗が続く理由になりました。

当時も浅草周辺には、芝居の裏方や職人、芸人、そして商人といった体を使う仕事をする方が、多く暮らしていたのです。
洋食の特徴は、お腹にたまって栄養があり、早く食べられること。
そのため、時間に追われるタイトな仕事をする方にとって「向いた食事」になります。

「浅草の洋食」は、フランス料理や西洋料理のままではなく、日本人の味覚に合わせ、日本式へと独自に進化していきました。
「浅草の洋食」は、ご飯が合い、箸でも食べられて、家庭料理にもなるところから「下町の楽しみ」として、街へ根づいたのです。

昭和初期の浅草。映画館や芝居小屋の明かりが並ぶ通りに、洋食屋の前で人々が集う様子。
昭和初期の浅草は、映画館や芝居小屋が集まる日本有数の娯楽の街。人が集い、流行が生まれる中で、洋食は特別な料理ではなく、庶民の楽しみとして街に根づいていきました。

戦災と復興も、洋食店を生き残らせた浅草

戦後の浅草は、焼け野原からの再出発を経て、観光と娯楽の復活が早かった地域。
また、洋食店は、仕入れが比較的安定している上、大量調理が可能という、復興期に強いビジネスモデルでした。

浅草の洋食店が戦後も残った理由は、運や偶然ではありません。
「街の性格」と「洋食」というビジネスモデルの強さが重なった結果です。

東京大空襲で、浅草一帯は大きな被害を受けました。
しかし、浅草は、戦後まもなく人が戻りやすい条件を持っていたのです。

「もともと娯楽の街だったこと」
「映画館・芝居小屋の再開が早かったこと」
「観光地として復活しやすかったこと」

人が集まる場所は、飲食店が必要になります。
洋食は、食材を工夫することで成立する料理で、定食化もしやすかったのです。
仕入れが比較的安定し、大量調理が可能という点で、洋食店は復興期に強いビジネスモデルでした。

戦後の日本では、食材が不足しており、ぜいたくな和食は作りにくかったのです。
お腹いっぱい食事をしたい方が多い中、洋食はこの希望に、当てはまりました。

しかし、浅草の洋食店は「高級店」を目指さなかったのです。
戦後も生き残った浅草の洋食店は、普段着のまま入れ、カウンター中心で回転が早く、手頃な価格という姿勢を保ちました。
「日常の中のごちそう」を守った洋食店が、老舗として続いたのです。

浅草の映画や芝居を鑑賞し、その前後で食事をするという流れは、戦後も続きました。
洋食は、早く出て、満足感があり、服装を選ばないところは、娯楽と相性が抜群。
映画館・劇場と洋食店は、運命共同体だったとも言えたのです。

浅草の洋食店は、家族経営のため、店舗の構えも大きくなく、店主の顔が見えるという形。
派手なレシピや、場所を変えることなく、常連を大切にしていました。
味と店舗を、店主である親から子へと、戦後の混乱期でも受け継がれることができたのです。

そして最後に大きな理由。
和食は高級化しやすく、中華は専門化しやすい面があります。
それに対して、洋食は、家庭料理や定食にもなれるほか、特別な日の料理にもなりました。
用途が広いことも、生き残りやすい理由のひとつ。
浅草という街の懐の深さ、そして、洋食の柔軟さが合わさった結果でした。

洋食は、時代が変わっても壊れにくい料理として、多くの方に今も親しまれています。

戦後復興期の浅草。焼け跡の街で営業を続ける洋食屋と、食事をとる人々の姿。
戦災で大きな被害を受けた浅草。それでも人が戻り、働く人の食事を支えたのが洋食店でした。復興の中で守られた「日常のごちそう」が、今も老舗として残っています。

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