Twitterでも山谷の暮らしを発信中です:
フォロー @sanya_tokyo
関東大震災・前編 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

関東大震災・前編

浅草の地盤と震災発生時の状況

浅草は地盤が弱いと聞いています。
また、時間帯もお昼ご飯の時間帯でした。

関東大震災が発生した時、山谷の地域も、大きな被害を受けました。
地面は大きな地割れが発生し、空からは火の粉が雨のように降ってきたそうです。

震災当日の家族の居場所

関東大震災が発生した時、自営業の祖父は集金で外出中で、父の一番年上の姉は上野松坂屋に勤務をしてそうです。
まだ小さい子供だった父は、祖母、もう一人の小学生になる姉、そして幼い妹と一緒に自宅にいました。
また、祖母はこの時、お腹に子供をみごもっていたのです。

避難を決断する

離れ離れになっている祖父、祖母、父の姉は
「きっと上野公園に避難するに違いない」
と思ったそうです。

祖母はまだ小さい子供の父を背中に背負い、そして、父よりもさらに幼い妹は、一緒に家にいた父の姉が背中に背負いました。
妹を背負っている姉も、まだ小学校高学年です。
父は祖父にとって待望の男の子ということもあり、お祝いで新調して貰った白い立派な着物がありました。
その着物はカゴに入れて、店の小僧さんが背負ったそうです。

火の粉の雨と地割れをくぐり抜けて

雨のように降ってくる火の粉をさけるため、皆、頭に着物をかけ、上野公園へと歩いて逃げました。

途中、大きな地割れの中に、祖母が落ちてしまったそうです。
しかし、職人の方々が、地割れから祖母を引っぱり出して、助けてくれました。
この時、職人の方々が、地割れから引っぱり出してくれなかったら、祖母は助からなかったとも聞いています。

上野公園での再会

上野公園へ向かう途中で、父の着物が入っていたカゴを、知り合いの写真館に預けました。

そして、上野公園で、全員、再会ができたのです。

上野公園は奥行きがある緑豊かな広々とした公園です。
火災の火も、上野公園の中までは追えません。
上野公園は、多くの命を救ったのです。

避難先の違いと隅田公園の悲劇

この震災の時、隅田川に面した隅田公園へ避難された方々がいます。
ただ、隅田公園は上野公園のような奥行きがないのです。
そのため、火に追われ、隅田川へ飛び込んだ方もいたそうですが、隅田川も川の上に火が走っている状態だったそうです。
隅田公園へ避難された方は、助からなかったと聞いています。

都内では、杉並区は地盤が固いと聞いています。
距離としては、15キロほどでしょうか。
当時、浅草から杉並区まで逃げた方もいました。

焼けた着物と今も続く避難場所

祖父が新調してくれた立派な着物は、父が袖を通すことなく、預かってくれた写真館とともに、火災で焼失してしまいました。

それから、かなりの年月が経ちましたが、今でも「上野公園」が避難場所であることは変わっていません。

駒形橋を渡る人々と車。震災を乗り越えて今も浅草をつなぐ復興の橋

※ 写真は「浅草の駒形橋」です。

ご感想・思い出などお寄せ下さい

タイトルとURLをコピーしました