震災が奪った家と家族
父たちが住んでいた家は、関東大震災でなくなってしまいました。
そのため、祖父がどこからか材木を集めて、南千住のあたりに家を作ったそうです。
家といっても、おそらく、雨風をしのげる小屋のようなものだったと思います。
そこへ、鉄道の方が来て、家のあるところに線路を引くので、家をどかすように言われました。
祖父は、作った家を、線路の下へ移したそうです。
父には6人の姉妹がいましたが、そのうち3人は、子供の時に亡くなっています。
そのうちの一人、上野公園へ一緒に避難した父の妹は、関東大震災から2週間後くらいに亡くなりました。
小さい子供にとって、地面には地割れが走り、上からは火の粉が雨のように降ってくる中を逃げたことは、大きな恐怖だったと思います。
「こわい、こわい」
そう言い続けて、息を引き取りました。
祖母と娘の最後の会話、家族の記憶
この妹の時か、それとも、幼くして亡くなった姉の時か――
「この子は、あと、どのくらい生きられるんだろう」
と、病床にいる我が子を見つめる祖母に、その女の子が
「お母さん、何で泣いているの?」
と聞きます。
祖母が
「泣いてなんていないよ」
と答えると、その子が
「でも、目に涙がいっぱい溜まっているよ」
と答えるのです。
幼くして亡くなった父の姉妹は、両親である祖父母、そして、父と一緒のお墓で眠っています。
関東大震災後の混乱
関東大震災後、混乱の中でさまざまな風評が広まりました。
祖母が語ってくれた話では、震災が落ち着いた後に
「井戸や水に毒が入れられた」
という根拠のない噂が広がったそうです。
そして、特定の人々やその家が疑われることにつながりました。
誰かが
「あの家は、毒を入れた人間のだーッ!」
と言うと、事実確認をしないまま、一斉にその家の打ち壊しが起こったのです。
水に毒など入っていた事実がなくても、誰かの一声だけで集団が暴走し、構わずにその家を破壊しました。
関東大震災後は、この異常な環境と、いつ自分が狙われるかもしれない恐怖が続いたのです。
祖母は、当時のことを、とても恐ろしかったと話していました。
後に歴史的にも、このような流言飛語が起こったことで、多くの無実の人々が被害を受けたことが記録されています。
東日本大震災で変わった日本人の考え
2011年3月に東日本大震災が発生しました。
2回目の関東大震災が起きたのかと思うほど家が揺れ、家具などは固定していたもの以外は、ほとんど床へと落ちたのです。
鍵がかかっている窓も、地震の強い揺れにより、鍵が外れて全開になっていました。
この時、東京では、ガスの供給が停止しています。
地震の後、バスや車は走っていたのですが、電車は運行が停止されたため、帰宅ができない方も多くいたのです。
職場にいた方々は会社に泊まり、外出中の方々は公的機関の建物に避難をしました。
仕事先の埼玉で震災に遭い、自宅のある東京まで歩いて帰宅した方もいたのです。
途中、民家でトイレを借りた際、どの家も快く貸してくれたことを話していました。
夜10時頃、ようやく家にたどり着いたそうです。
この東日本大震災で、日本人の考え方が変わっていきました。
それまでの日本人の考えは、家族や友人、そして自身の健康よりも、仕事を優先することが美徳とされていました。
そして、当たり前のようにくる毎日が、明日も、明後日も、ずっとあるように思ってしまいます。
しかし、大切な家族、友人と過ごす時間、そして自分自身の時間も、必ず明日もあるとは限らないのです。
もうないかもしれないのです。
東日本大震災を通して、多くの方がそのことに気づきました。
そして、今、生きていることが、いかに素晴らしいのかを、改めて胸に刻んだのです。

※ 写真は「台東区駒形の交差点」です。
ご感想・思い出などお寄せ下さい