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観光地の裏にある「労働者と旅人」の駅 -上野と石川啄木の碑- | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

観光地の裏にある「労働者と旅人」の駅 -上野と石川啄木の碑-

観光地としての上野駅、その裏側にある場所

上野駅といえば、アメ横や美術館、公園へ訪れる観光客の姿が思い浮かびます。
休日に限らず、家族連れや外国人旅行者でにぎわい、東京の玄関口のひとつ。

けれど、駅の周辺を少し歩いてみると、上野駅前通り商店街に、石碑がポツンとあることに気づきました。
大きな案内板でもなく、観光スポットとして紹介されることも少ない、静かな石の碑です。

その碑には、短い言葉が刻まれていました。
上野という場所を、全く別の角度から見つめた「石川啄木(いしかわ たくぼく)」氏の短歌。

「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」

この歌で印象的なのは、「見る」ではなく「聴く」という言葉です。
人混みを眺めるのではなく、その中に混じり、耳を澄ます。
かすかに残る自分の居場所を、群衆の中で探していたようにも感じられる歌です。

石川氏は、生活と文学で身を立てるため、岩手県から東京へ来ました。
明治時代の東京は、出版社や新聞社、文学雑誌、そして作家・詩人たちがすべて集まる、日本の文学の中心地だったのです。

「文学で生きるなら東京へ行くしかない」
これは当時の若い文学青年にとって、ほぼ共通の進路でした。
しかし、東京に出てきてからの石川氏は、仕事が安定せず、貧しさと孤独の中にあったのです。

それでも、東京から離れなかったのは
「東京にいなければ文学の仕事がない」
「地方へ戻れば、完全に夢を諦めることになる」
という思いからだったようです。
石川氏にとって東京は
「成功するか、潰れるか、どちらかしかない場所」
でした。

そんな彼にとって、上野駅でふと耳に入る東北の言葉は、故郷そのものだったのかもしれません。

(ブログ記事「簡易宿泊所だけでなく、文化人も密集していた山谷・後編」を参考)

石川啄木の歌の碑。
石川啄木の歌の碑。
ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
日中の上野駅前通り商店街。石川啄木氏の歌の碑がある。
日中の上野駅前通り商店街。石川啄木氏の歌の碑があります。

今も上野に残る、労働者と旅人の駅の記憶

上野駅は、にぎやかな観光地であると同時に、昔から人の流れが交差する駅でした。

「東京で働くためにやって来た人」
「行き先を探しながら降り立った人」
「事情を抱えて移動してきた人」

明治から昭和にかけて、上野は東北方面と東京を結ぶ重要な玄関口。
列車を降りれば、そこから先は、それぞれの人生が始まるのです。
成功する人もいれば、うまくいかない人もいました。

にぎやかな表の顔の裏で、上野駅はそうした人たちを黙って受け入れてきた場所でもあります。
もちろん、観光案内には載りません。
でも、上野駅はその役割も存在してきていたのです。

時代は変わり、上野駅は観光地の駅として整えられました。
ただ、早朝や夜の駅に立つと、今もどこか落ち着かない空気が残っています。

通り過ぎる人の中には、目的地をはっきり持たない人。
仕事のため、事情のため、とりあえず移動してきた人もいます。

石川氏の碑は、そうした人々の存在を静かに思い出させます。
ここは、祝うための場所ではなく、立ち止まり、耳を澄ますための場所。

観光地として知られる一方で、労働者や旅人を受け入れてきた上野駅。
石川氏の碑は、その記憶を今に伝えています。
人ごみの中で、誰かの訛りに耳を澄ます。
その行為は、今もこの街のどこかで、続いているのかもしれません。

JR上野駅の広小路口前にある横断歩道。
JR上野駅の広小路口前にある横断歩道。
JR上野駅の広小路口。多くの人が行き交っている。
JR上野駅の広小路口。多くの人が行き交っています。

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