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太宰治が彷徨った、浅草と山谷の世界 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

太宰治が彷徨った、浅草と山谷の世界

なぜ太宰治は、浅草と山谷のあいだを生きたのか

太宰治氏は、華やかな文豪というより、浅草・上野・山谷周辺で、瓦解するように生きていた作家でした。
実際の生活圏は、浅草や路地裏の飲食店、リーズナブルな上野の宿、山谷側の簡易的な宿だったのです。

太宰氏が描いた「浅草・山谷的な世界」の代表作に「人間失格」「斜陽」「東京八景」があります。
「人間失格」は、アルコールや借金などの放浪生活で、社会からこぼれ落ちる若者を描きました。
山谷の「不安定な暮らし」と重なる世界です。
「斜陽」は、戦後の没落、居場所を失った人々と、東京の裏側を。
戦後の浅草・山谷と重なる空気があります。
「東京八景」は、上野・浅草周辺の描写がされ、実体験に近い随筆作品になりました。

その作品に「山谷と浅草」が重なる理由は、下記があるようです。

太宰氏は実際に、リーズナブルな街を渡り歩いていました。
高級住宅地ではなく、下町・簡易宿泊施設という生活でした。
浅草・上野・山谷は
「金銭がなくても生きられる街」
だったのです。

太宰氏は成功者ではなく、脱落者側から作品を描きました。
仕事は長続きせず、アルコールを好み、その中で人間関係も崩れていったのです。
その似た境遇の人が多くいるのが、山谷という地域でもあります。

山谷の貧困・孤独を描いた作家に、永井荷風(ながい かふう)氏がいます。
永井荷風氏が観察者として作品を書きました。
それに対し、太宰氏は当事者として作品を書いたのです。
どちらの作家も、貧困・孤独の世界を描いていますが、目線の違いがあります。
(ブログ記事「簡易宿泊所だけでなく、文化人も密集していた山谷・後編」を参照)

戦後の山谷は、焼け跡、人々の生活を支えるインフラ、短期労働や簡易宿泊施設という貧困の時代でした。
太宰氏の晩年は、まさにこの時代だったのです。

成功しても救われなかった作家の孤独

太宰氏が
「山谷が暮らしていた」
という明確な記録は、日記や書簡といった公式資料の中にはありません。
ただし、山谷と地続きの場所で生活・放浪していた事実はあります。
「山谷在住」
ではなく、
「山谷圏内で生きていた」
ということは間違いありません。

その行動範囲は、上野のリーズナブルな宿、浅草の飲み屋街や観音裏・裏浅草、本郷や下谷の下宿です。
これらの場所は、山谷の徒歩圏内でもあります。
代表作も、山谷的な生活圏と重なります。

東京において、リーズナブルな価格で泊まれる場所が山谷。
太宰氏は、無一文、多額の借金や原稿料前借りを何度も繰り返していました。
山谷を使わなかったとは考えにくいのです。

交友関係も、貧困層や放浪の旅人、生活に困窮した芸人たちと親しくしていました。
付き合いをしていた人々の多くは、山谷を拠点にしていた層です。

太宰氏は執筆で成功した作家でした。
しかし、若い頃から、心の病とアルコール依存で苦しんでいたのです。
さらに、作家として注目される苦しさ、期待への重圧が、重荷になっていきました。
生活、責任、恋愛の中で、次第に追い詰められていったのです。
成功はしても、心はずっと
「居場所のない人」
だったのかもしれません。

「人間失格」を発表した直後、太宰氏は恋人とともに、その生涯を終えました。
39歳でした。

夕暮れの浅草と山谷を結ぶ一本道。左ににぎやかな商店街、右に静かな路地と簡易宿泊所が並ぶ昭和レトロ風の水彩画イラスト。
夕暮れ時の東京下町を描いたイメージイラスト。
左側には浅草風のにぎやかな商店街、右側には山谷を思わせる静かな路地と宿泊施設が並んでいます。
太宰治氏が生きた時代の空気をやさしく表現しています。

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