父が教えてくれた「通(つう)の買い方」
「裏から買うのは通(つう)なお客なんだ」
そう言って、父はよく「金龍山(きんりゅうさん)」の「あげまんじゅう」を大量買いをしていました。
浅草寺の前にある仲見世。
浅草寺寄りの位置に「金龍山」という、老舗のあげまんじゅう専門店があったのです。
仲見世で並ぶ中に販売店があり、その後ろの路地をはさんだ裏手に、あげまんじゅうを製造する工場がありました。
通常は仲見世の販売店から買うのですが、父のように昔から購入していたお客だと、裏手にある工場から買うことができたようです。
あげまんじゅうを売っているところは他にもありますが、金龍山のあげまんじゅうは別格なのです。
揚げものだと、その商品にも油がどうしても染みてしまいます。
そのため、食べた時、口の中で油が染み出してしまい、油も一緒に食べている感じに。
しかし、金龍山のあげまんじゅうは、油の染み出しがありません。
カリッと揚げられた外側の衣、中身のまんじゅうは優しくふんわりしていました。
また、まんじゅうの中にある黒あんも、上品な甘さ。
あげまんじゅうの丸くふっくらとした形は、夜空に輝く満月のようでした。
ただ、金龍山は、あげまんじゅうの「一個売り」といった単品販売はしなかったのです。
年月が経ち、あげまんじゅうの単品販売をするお店が、浅草に出店するようになりました。
一個売りといった単品販売が可能だと、あげまんじゅうを食べながら、観光ができます。
あげまんじゅうを買う人垣は、単品販売をしている店舗の方が多くなりました。
単品販売をした方が、きっと、金龍山の人垣は、以前のように多くなるでしょう。
それは、きっと金龍山のお店の方々もわかっていると思います。
でも、決して単品販売をされません。
その理由は、当時はまだ知らなかったのです。

なぜ金龍山は「一個売り」をしなかったのか
父や家族共ども、金龍山のファンとして、あげまんじゅうを買うのは
「金龍山」
と決めています。
以前と違って、並ばずに買えるようになったことを寂しく思いつつも、あげまんじゅうを買う時は、金龍山へ向かいました。
やはり、金龍山のあげまんじゅうは美味しいのです。
その後、金龍山が閉店したことを知りました。
単品販売のお店へ人が流れたことは心配していたのですが、金龍山は老舗なので、きっとお店は続けてくれると思っていたのです。
信じられず、賑やかな仲見世の中、金龍山へ向かうと、お店のシャッターは降りたまま。
そして閉店された後、
「なぜ、金龍山が単品販売をしなかったのか」
その理由を知ったのです。
あげまんじゅうを「一個売り」といった単品販売をすると、あげまんじゅうを食べながら歩く方が出てしまいます。
その結果、あげまんじゅうの油がついた指や手で、他店のお店にある商品を触る方が出ることになります。
着物などの衣類を店頭販売しているお店もありました。
「自分のお店の商品で、他のお店の商品を汚すようなことがあってはならない」
金龍山が決して単品販売をしなかったのは、この理由だったのです。

終わりと始まりは、いつも表裏一体
お店によって、商いに対する考え方は様々あります。
ただ、金龍山は利益よりも、先祖から受け継いだものを守る方を選んだのです。
ある方から
「終わりと始まりは表裏一体。何かを始めたら、必ず、終わりの時が来る。始めることよりも、終わらせ方のほうが大事。始めたことを、どう終わらせるのか」
と教え貰いました。
何かを始めたら、良い終わらせ方をする。
これは、人との出会いも同じなのかもしれません。
出会いも別れと表裏一体。
出会ったら、必ず、別れの時が来る。
良いお別れの仕方を考えなくてはならない。
今でも、金龍山がなくなったことは、本当に悲しいです。
その中で
「終わりと始まりは表裏一体」
の言葉が、脳裏をよぎるようになりました。
金龍山は、老舗として守ってきた伝統を、壊すことのない終わり方を選んだのだと思っています。

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