山谷・根岸・下谷は「文化人の街」
山谷というと、簡易宿泊所が密集する「ドヤ街」という印象が強いと思います。
その山谷、そして、根岸、下谷といった下町の地域は、文化人も密集していたのです。
「山谷の文化人」とは、主に明治から昭和初期にかけて、山谷・日本堤・吉原・下谷・根岸一帯に暮らし、創作活動を行った文人・芸術家たちを指します。
この地域は当時、貧しさ・人情・色街・労働・孤独・生と死が濃密に交差する場所であり、創作の源泉そのものでした。
では、なぜ、これほど多くの文化人が、山谷に引き寄せられたのでしょうか。
その理由は下記のとおりです。
「家賃が安かった」
「日雇い・職人・遊郭・労働者が集まる」
「人間の「生」と「死」が極端に近かった」
「表通りと裏通りの落差が激しい」
「きれいごとではない「現実」があった」
つまり、山谷は、人間を描くには、これ以上ない場所だったのです。
では、その文化人とは誰なのでしょうか。
下町に刻まれた「正岡子規」氏の足跡
まずは「正岡子規」氏。
正岡氏は晩年、台東区根岸で過ごしていました。
現在の「子規庵」です。
結核と闘病しながら俳句や短歌、随筆を執筆。
山谷周辺の庶民の暮らし、路地や畑、人の声を写実的に作品へと描いていきました。
山谷周辺は「子規文学の最終章の舞台」だったのです。
正岡氏は、下谷神社にも日常的に参拝していたこともあり、同社に句碑も建てられました。
療養生活を送った晩年の7年間。
下谷神社は、正岡氏にとって「生活の中の神社」だった場所なのです。
では、なぜ「下谷神社」だったのでしょうか。
(ブログ記事「下谷神社」を参考)
当時の下谷神社は、この地域の氏神様であり、商人・町人・文人が自然に集う場所でした。
そして、寄席発祥の地でもあり、文化の中心地でもあったのです。
病弱だった正岡氏にとっては、遠出しなくても行ける、静かで落ち着いた生活圏にある神社は、大きな意味を持っていたと考えられています。
下谷神社の境内にある子規の句碑は、この地で生き、俳句を詠み、病と向き合った証であり、観光用の記念碑ではなく、生活の碑という性格が強いものです。
有名人だから建てた碑ではなく、この町で生きた文化人だったから残された碑なのです。
また、この地域には、正岡氏以外にも、森鴎外氏、夏目漱石氏、永井荷風氏など、多くの文人たちが暮らしました。
下谷神社の正岡氏の句碑は、この地域全体が持つ「文学の記憶」も象徴している存在と言えます。


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