防空壕(ぼうくうごう)に救われた命
太平洋戦争中、父の家族は全員一緒ではなく、離れて暮らしていました。
父は軍事工場です働き、父の姉は都内の葛飾区立石あたりに避難をしていたのです。
祖母と父の妹は、そのまま山谷に住んでいました。
空襲が起きると、山谷でも、皆、防空壕へと避難をします。
ある日、空襲警報が鳴りました。
祖母と、父の妹である叔母は、防空壕へと避難をします。
最初に避難をしようとした防空壕は、もう避難された人でいっぱいで
「ここはもう入れない。他に行ってくれ」
と断られました。
祖母と叔母は、他の防空壕を探したところ、まだ人の受け入れができる防空壕を見つけたのです。
その防空壕の中に入れて貰い、空襲がおさまるのを待ちました。
空襲がおさまった頃に、その防空壕のリーダーらしき方の
「皆さん、今回は助かりました」
という言葉と共に、避難していた方々が、防空壕の外へと出ます。
祖母と叔母も外へと出て、帰ろうと歩いていた時、最初に避難をしようとして断られた防空壕の前を通りました。
その防空壕は、敵機から落とされた爆弾の直撃弾を受けてしまったのです。
その中に避難していた方は、全員亡くなっていました。
祖母と叔母も断られずに、その防空壕の中に入っていたら、亡くなっていたのだと思います。

東京大空襲が残した景色
東京大空襲で、全てがなくなりました。
父の姉にあたる伯母は、葛飾区の立石というところにいたのです。
立石から浅草まで、距離として7キロくらいあります。
東京大空襲が過ぎ去った後の日中、叔母が外に出ると、立石から浅草松屋の建物が見えました。
そのくらい、東京は何もなくなってしまったのです。

進駐軍の仕事と家族の再出発
終戦後、父は祖父と2人で、技術職の自営業を始めました。
そして、横浜にいる進駐軍からの仕事を行なっていたのです。
なぜ、街の自営業の親子に、進駐軍が仕事を頼んだのかというと、おそらく、父が軍事の仕事をしていたからだと思います。
進駐軍が仕事を依頼する時、電話がないと困るので、父の家には一番早く電柱が立ち、電話線が引かれました。
電話を通す際の手続きは、父の妹にあたる叔母が行いました。
叔母が手続きに行くと、進駐軍の方々は、ニコニコとされていたそうです。
進駐軍から仕事の依頼がくると、父と祖父でその部品を作ります。
そして、父の一番下の弟にあたる叔父が、出来上がった部品を荷台にのせ、山谷から横浜まで自転車をこいで納品へ行っていました。

秋葉原での再会と沈黙
父は戦争中の話は、ほとんどしなかったのです。
平成に入った頃、父が車で秋葉原へ出かけた時のこと。
父と年令が近いと思われる男性が、駐車場で車の誘導をされていました。
その方は、父を見ると
「自分は南方の方へ行っていたんです」
と話しかけられます。
父は
「私は軍事工場にいたので」
と答えると、その方は
「我々もまだまだですよね」
と、ちょっと嬉しそうに話されていました。
相手の方は、同じ戦時中に生きた人と出会えたことで、懐かしい気持ちになられたのだと思います。
ただ、戦時中のことを聞かれた父は、元気のない様子でした。

山本五十六元帥の奥様との出会い
山谷のことではありませんが、太平洋戦争に関する話があります。
山本五十六元帥のご家族のことです。
終戦後、母の伯父が所用があって東京へ来ました。
そして、用事を済ませ、東京から福島まで、東北本線に乗って帰ろうとした時のことです。
東北本線の中で、伯父の隣りに、荷物の担ぎ屋をしている女性が座りました。
伯父も隣りの女性も、どちらも福島県の会津の出身だったため、とても話が合ったそうです。
そして、別れる際、伯父は、荷物の担ぎ屋をしている女性に名前を聞きました。
女性は、名前を名乗る時、ちょっと迷ったそうですが
「山本レイ(山本レイ子)」
と、山本五十六元帥の奥様であることを打ち明けました。
伯父は、自分の住所を紙に書いて、山本五十六元帥の奥様へ
「今度、遊びに来るように」
と言って渡したのです。
伯父の家は、大きな農家なので、食料には困らなかったのです。
山本五十六元帥の奥様は、末のお嬢様を連れて、2回、遊びにいらっしゃいました。
伯父の家には、山本五十六元帥の末のお嬢様と、年の近い男の子がおり、2人で一緒に、お風呂の水汲みをしていました。
太平洋戦争と聞くと、遠い昔の話に思いますが、終戦からまだ100年も経っていないのです。

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