浅草北仲町の始まりは、浅草寺門前の畑
浅草の雷門通りを歩いていると「旧 浅草北仲町」と書かれた説明板がありました。
現在の地図にはない町名。
観光客でにぎわう浅草一丁目に、かつて「北仲町」という小さな町がありました。
さらに町名をたどると、この一帯は浅草寺門前の畑だったことがわかります。
「浅草北仲町」は、現在の台東区浅草一丁目、雷門通りの北側にかつて存在した町の名前。
台東区が設置した説明板「下町まちしるべ・旧町名由来案内」で、町名の変遷がまとめられています。


浅草北仲町は、最初から独立した町だったわけではありません。
では、浅草北仲町は、浅草のどこにあったのでしょうか。
説明板の位置図によると、旧浅草北仲町は、おおむね現在の
「台東区浅草一丁目」
「雷門通りの北側」
「新仲見世通りの南側」
「オレンジ通りから浅草中央通り付近」
にあった、細長く小さな町です。
ただし、これは昭和9年(1934)に町域の大部分を「浅草雷門」へ編入された後の、小さくなった町域を示していると考えられます。
それ以前の浅草北仲町は、もう少し東側まで広がっていました。
「雷門通りの地域」
と表現しても間違いではありませんが、正確には
「現在の雷門通り北側、浅草一丁目の一部にあった町」
という認識で良いかもしれません。
また、町名の始まりは「畑」だったようです。
この一帯は江戸時代初期、浅草寺門前に広がっていた畑の一部でした。
畑の中央付近にでき、人が住む家屋が集まり、共同で社会生活をしていた地域だったことから
「中畑村」
「仲畑村」
と呼ばれたと、伝えられています。
寛永20年(1643年)に、町割りが行われました。
この時に「仲町」と呼ばれるようになります。
ここでいう「仲」は、浅草寺の仲見世を意味するものではないようです。
もともと
「畑の中央」
という意味の
「中畑」
「仲畑」
に由来したと考えられています。
また、平凡社「日本歴史地名大系」では、この一帯は古く「東仲畑村」と呼ばれ、寛永20年の町割り直し・検地によって仲町になったとの解説があります。


小さくなり、やがて消えた浅草北仲町
仲町から北仲町になるまで、町名の変遷を並べると、下記のようになります。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 江戸時代初期 | 浅草寺門前の畑。中畑村・仲畑村などと呼ばれたと伝わる |
| 寛永20年 (1643年) | 町割り直しなどにより「仲町」となる |
| 寛文5年 (1665年) | 仲町が「東仲町」と「西仲町」に分かれる |
| 明治5年 (1872年) | 東仲町の北側が分離し、「浅草北東仲町」となる |
| 明治45年 (1912年) | 「東」の字を外し、「浅草北仲町」と改称 |
| 昭和9年 (1934年) | 東側の大部分が、新設された「浅草雷門一・二丁目」に編入され、町域が小さくなる |
| 昭和40年 (1965年) | 住居表示の実施により浅草北仲町の町名がなくなり、現在の浅草一丁目となる |
台東区の説明板には、浅草北東仲町から浅草北仲町への改称を「明治45年」と記しています。
一方、一部の町名資料では明治44年(1911年)としており、資料によって1年の違いがあるようです。

「浅草北仲町」に「北」がつくのは、なぜなのでしょうか。
「浅草北仲町」という名前は、浅草の北側という意味ではありません。
明治5年、浅草広小路を挟んで、浅草東仲町の北側にあった部分が分離。
そのため、「北東仲町」と名付けられました。
この「浅草広小路」が、現在の雷門通りにあたります。
つまり、町名の「北」は
「雷門通りを挟んで、東仲町の北側にあった」
ことを示しているのです。
その後に「北東仲町」から「東」の字が外されて「北仲町」になりました。
そして昭和9年(1934年)、町が縮小されます。
雷門周辺で、大規模な町名整理が行われたのです。
浅草北仲町をはじめ、浅草馬道町、
浅草花川戸町、浅草公園地などの一部を合わせて、新しい町名
「浅草雷門」
が成立。
浅草北仲町は、東側の大部分を編入され、説明板の地図にあるような小さな町域だけが残ったのです。
このため
「浅草北仲町が浅草雷門に一度に改称された」
というよりも
「昭和9年に大部分が浅草雷門へ入り、残った小さな区域だけが浅草北仲町として、昭和40年まで存続した」
と理解するのが良いようです。
こうして「浅草北仲町」は、昭和40年の住居表示により、300年以上続いた「仲町」の系譜は、町名から消えることになりました。



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