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【泪橋と思川(1)】作品の中で復活した泪橋 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

【泪橋と思川(1)】作品の中で復活した泪橋

思川にかかっていた泪橋

江戸を舞台にした時代劇に登場する「泪橋」
「明治通り」と「吉野通り」が交わる交差点やバス停に、その名が残っています。
この周辺には、いろんな川がありました。
そして多くは、地中に埋められて暗渠(あんきょ)へ。
しかし、橋の欄干(らんかん)が名残りとなり、川があったことの面影を伝えています。

台東区と荒川区の境目にある泪橋交差点には、橋や川の名残りとなる建造物などの存在がありません。
「小塚原刑場(こづかはらけいじょう)」の場面に登場する泪橋。
泪橋とは、どんな橋だったのでしょうか。
そして、その橋の下を流れていた川は、どんな川だったのでしょうか。

ブログ記事「山谷の入口として語られた「泪橋」」から7ヶ月が過ぎました。
再度、泪橋と、その下を流れていた川について調べてみることにしたのです。

泪橋交差点に「思川と涙橋」という説明版があります。

「思川と涙橋」の説明板に「泪橋交差点」の伝承や歴史が記載されている
「思川と涙橋」の説明板に「泪橋交差点」の伝承や歴史が記載されている

現在の泪橋交差点は、明治通りと旧日光街道、現在の吉野通りが交差するところ。
江戸時代、この付近には「思川(おもいがわ)」という水路が、東西方向に流れていました。
交差点の説明版でも、泪橋は「音無川(石神井川用水)」の支流であった「思川」にかかっていた橋とされています。
思川は「支流」とあるので、本流の大きな音無川から分かれた、小さな川だったようです。

台東区が1963年に刊行した「道路・橋梁考」という調査報告書。
こちらの書籍に
「台東区北辺を流れていた思川に泪橋という橋がかけられていた」
と典拠(てんきょ)があります。

現在の景色に置き換えると
「旧日光街道が思川を越えるためにかかっていた橋」
に「泪橋」を思い浮かべると、わかりやすいかもしれません。

では、思川はいつ消えたのでしょうか。

「〇〇年に思川を暗渠化した」
という明確な資料は、確認できません。
ただ、古い地図から範囲を絞れます。
1910年以前の地図には「涙橋」の表記があり、1920年前後の大正時代の地図にも「涙橋」「泪橋」という文字が確認できます。

地図に「涙橋」「泪橋」と表記や文字があること。
台東区の「道路・橋梁考」にも典拠があることから、明治時代の末期から大正時代には「泪橋」という橋と「思川」という川はあったのです。

そして、1930年前後(昭和初期)の地図では、川だけでなく、橋の確認もできなくなっています。
おそらく、大正時代の末期から昭和の初期までに、思川の暗渠化および道路化が進んだのでしょう。
思川の暗渠に伴い、泪橋も不要になったのではないかと思います。
この時期から、思川と泪橋があったところは、すでに現在の景観になっていたようです。

「泪橋交差点」にある「あらかわの史跡・文化財」の「思川と涙橋」の説明板
「泪橋交差点」にある「あらかわの史跡・文化財」の「思川と涙橋」の説明板

橋は消えても、名は残った

また気になるのは
「江戸時代の「泪橋」は本当に小塚原刑場へ行く橋だったのか」
という点です。

小塚原刑場は、現在の南千住駅および延命寺のあたりにありました。
処刑が決まった場合、江戸の市中から、旧日光街道を北へ向かうと、その手前で思川を渡ります。
その橋が泪橋でした。

「吉野通り」と「明治通り」が交わった交差点が「泪橋交差点」
「吉野通り」と「明治通り」が交わった交差点が「泪橋交差点」

台東区の「道路・橋梁考」に、泪橋の名前について、二つの伝承が記録されています。

「小塚原の刑場へ送られる罪人が、この世との別れを惜しんで涙を流した」

「罪人を見送る家族や知人が、ここで今生の別れとなるため涙を流した」

罪人が必ず、泪橋で家族と正式に別れたとは、断定できません。
調べた範囲でわかることは、泪橋は小塚原刑場へ向かう道筋にあった橋。
泪橋は「罪人や見送る人々が涙を流した」という「伝承」からの呼び名のようです。

1968年(昭和43年)に連載が開始された「あしたのジョー」という作品があります。
しかし、1955年前後の地図でも川と橋は見当たらず、1930年前後の地図にも見えなくなっています。
作品が連載された頃、実物の泪橋はなかったのです。

「あしたのジョー」に登場する「泪橋」は、当時、実在していた橋をそのまま描いたわけではありません。

川も橋も見えずに「泪橋交差点」という名前は残っています。
すでに実物の橋はありませんが「あしたのジョー」の中で「泪橋」は復活し、作品の重要な象徴となりました。

そして、もうひとつ重要なのは、現在の台東区と荒川区の境界線が、かつての思川の流路とかなり重なっていること。
川そのものは見えなくなっても、昔の川が「行政境界」として、現在の東京の地図に残りました。

「泪橋交差点」から「白鬚橋」「川の手通り」「隅田川」へと続く「明治通り」
「泪橋交差点」から「白鬚橋」「川の手通り」「隅田川」へと続く「明治通り」

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