江戸の金融を動かした「札差」
今ではカフェや雑貨店のある町として知られる蔵前。
しかし、その名の由来となった「蔵」は、民間の倉庫ではなかったのです。
隅田川沿いには、幕府直轄領から運ばれた年貢米を収める巨大な「浅草御蔵」がありました。
ここは江戸の食糧を蓄える場所。
それと同時に、旗本や御家人の給料を支給し、札差と呼ばれる商人たちが大きなお金を動かした
「幕府の財政を支える町」
だったのです。

都営大江戸線「蔵前駅」前に設置された台東区の説明板。
この説明板の「旧浅草蔵前」は、現在の台東区蔵前だけでなく、説明板が立っている浅草橋三丁目付近までを含んだ旧町名です。

一言でいうと蔵前は、江戸幕府最大級の米蔵「浅草御蔵」が隅田川沿いにあったことから生まれた町になります。
では「蔵前」とは、何の蔵の前なのでしょうか。
「蔵前」の蔵とは、江戸幕府の米蔵である「浅草御蔵(あさくさおくら)」のことです。
江戸時代の初め、元和6年(1620年)、幕府は隅田川西岸に大規模な米蔵を造りました。
鳥越の丘を削り、その土で隅田川沿いを埋め立てて造成したのです。
翌元和7年(1621年)には、御蔵の西側にあった町が「浅草御蔵前片町」と、呼ばれるようになりました。
これが「蔵前」という地名が使われた最初とされています。
つまり「浅草御蔵の前にある町」が「御蔵前」となって、そして「蔵前」になったのが、地名の成り立ちです。


隅田川沿いに、米蔵が造られたのは、理由がありました。
幕府直轄領、いわゆる天領から納められる年貢米は、船で江戸へ運ばれてきたのです。
そのため、大量の米を荷揚げして保管するには、隅田川沿いが適していました。
浅草御蔵には、川から船を入れるための堀も設けられていたのです。
米を積んだ船が、御蔵の近くまで入れる構造になっていました。
浅草御蔵は、隅田川西岸の現在の蔵前一・二丁目付近を中心に、南は現在の柳橋二丁目付近、北は蔵前三丁目付近まで広がっていました。
最も広い時期には、約3万6,000坪あり、東京ドームが二つ入るほどの広さだったとされています。
浅草御蔵には、67棟もの蔵がありました。
約62万7,500俵、重さにして約3万7,500トンの米を収めることができたのです。
ただし、最初から67棟あったわけではありません。
江戸時代を通じて増築され、最終的に67棟ほどの大規模な御蔵になったと考えられます。
「浅草御蔵」は「大坂の御蔵」「京都二条の御蔵」とともに
「三御蔵(さんおくら)」
と呼ばれました。
そのなかでも、江戸幕府の本拠地にあった「浅草御蔵」は、とくに重要な施設だったようです。
浅草御蔵に保管された米には、主に2つの役割がありました。
「災害や凶作などに備えるための備蓄米」
「領地を持たない旗本や御家人に給料として渡す蔵米」
江戸時代は、武士の給料が現金ではなく、米で支給されることがありました。
浅草御蔵では、春・夏・冬の年3回、旗本や御家人などの幕臣に、米が支給されていたのです。
浅草御蔵は、単なる食糧倉庫ではありません。
幕臣の生活を支え、幕府の財政を動かす、現在でいえば巨大な倉庫と、給与支払所を兼ねたような場所でした。


武士に米が支給されても、それをすべて、自分で食べるわけではありません。
生活費を得るためには、米を売って現金に換える必要があります。
そこで登場したのが「札差(ふださし)」です。
札差は旗本や御家人に代わって
「御蔵から米を受け取る」
「米を運ぶ」
「米を売って現金に換える」
「蔵米を担保に武士へお金を貸す」
といった仕事をしました。
札差は、手数料や貸付によって、大きな利益を得るようになります。
蔵前には、裕福な商人が集まりました。
裕福で洗練された札差たちの振る舞いは「蔵前風」と呼ばれるほど、力を持ったのです。
したがって、江戸時代の蔵前は、蔵が並ぶ「だけ」の場所ではありません。
米と金融を中心に、大きなお金が動く町だったのです。
「浅草蔵前」という旧町名の場所は、現在の「台東区蔵前一丁目~四丁目」です。
ただ町名は、何度か変わっています。
| 年代 | 町名の動き |
|---|---|
| 1620年 | 浅草御蔵の造成が始まる |
| 1621年 | 「浅草御蔵前片町」の名が現れる |
| 1934年 | 周辺の九つの町を整理し、蔵前一~三丁目が成立 |
| 1947年 | 浅草区と下谷区が合併して台東区が成立。「浅草蔵前」の名が使われる |
| 1964年 | 住居表示により周辺を再編し、現在の蔵前一~四丁目となる |
「浅草蔵前」という町名の移り変わり
「浅草蔵前」の「浅草」は、浅草寺のすぐ近くという意味よりも、旧浅草区に属していたことを示す呼び名です。
台東区の説明板は現在の浅草橋三丁目20番付近にあります。
旧浅草蔵前の一部が、現在は「浅草橋」という町名になったため、蔵前の説明板が、現在の蔵前の外側に立っているのです。
台東区の住居表示は、1964年から順次実施されました。
蔵前・浅草橋・鳥越などは、第一次の対象地域だったのです。
浅草御蔵は、その後どうなったのでしょうか。
明治維新後、浅草御蔵は、明治政府に引き継がれました。
年貢が米ではなく、現金で納められるようになります。
国税庁・税務大学校の資料によると、明治政府による地租の金納化後から、浅草御蔵は「米廩(べいりん)」または「米蔵」と呼ばれました。
政府の備蓄米を保管したり、米価を調節したりする施設として、使われたのです。
「廩」は、穀物を蓄えておく倉庫を意味する漢字。
そのため「米廩」は、そのまま「米を保管する倉庫」という意味になります。
明治11年(1878年)になると、大蔵省の「常平局」が、浅草御蔵の場所に本局を置きました。
常平局は、政府の備蓄米を管理し、米価を調節したのです。
しかし、次第に蔵の数は減っていき、明治末年には2〜3棟を残すのみとなりました。
残っていた建物も、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失。
現在、当時の米蔵は残っていません。


蔵前橋西詰近くには「浅草御蔵跡碑」があります。
昭和31年(1956年)に、建立されました。
現在の「蔵前」という地名、そして蔵前橋や蔵前駅が、かつて巨大な米蔵があったことを、今に伝えています。

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