田圃から生まれた「三丁目」だけの町
国際通りと浅草通りが交わる寿四丁目交差点。
その近くに「旧浅草北田原町」と書かれた台東区の説明板があります。


「北田原町」
と聞くと、地下鉄の田原町駅より北にあった町のように思えます。
この町の正式な名前は
「浅草北田原町三丁目」
でした。
しかし、不思議なことに「北田原町」には「一丁目」も「二丁目」もありません。
なぜ「三丁目」だけの町が、生まれたのでしょうか。
「浅草北田原町(あさくさきたたわらまち)」は、現在の台東区浅草一丁目のうち、雷門通りの北側にあった旧町名です。
「田原町駅の北側にあった町」
と思ってしまいそうです。
正確には、江戸時代の「浅草田原町三丁目」が、明治時代に南北へ分けられ、その北側に新しく付けられた町名でした。
では、浅草北田原町は、現在のどのあたりなのでしょうか。

おおよその位置は、現在の浅草一丁目の西寄り、雷門通りの北側です。
現在の「すしや通り」の西側を中心とする一帯で、かつての「蛇骨湯(じゃこつゆ)」という銭湯があった浅草一丁目11番付近も、町内に含まれていました。
つまり、現在の浅草一丁目には
「旧浅草北田原町」
「旧浅草北仲町」
「旧浅草公園地」
「旧浅草雷門二丁目」
など、複数の古い町がまとまっているのです。
現在は一つの「浅草一丁目」となっていますが、以前は小さな町に細かく分かれていたのですね。
この一帯は、もともと浅草寺領の田圃(たんぼ)でした。
当時、雷門一丁目交差点やその周辺には「紙漉き(かみすき)」を仕事にする人々がいたのです。
そのため、俗に「紙漉町」と呼ばれていたといいます。
江戸では使用済みの紙を集め、水に浸して漉き直す紙づくりが行われていました。
浅草周辺で作られた再生紙は「浅草紙」と呼ばれ、江戸の名産品の一つになったのです。
ただし、紙漉町の中心だったとされるのは、主にのちの田原町一丁目、現在の雷門一丁目付近。
北田原町だけで紙漉きが行われていたという意味ではありません。
北田原町の前身を含む「浅草田原町一帯」で行われていました。
浅草紙は、現在でいえばリサイクルペーパーのこと。
「江戸で最初の紙漉き発祥の地」
とも言えます。
その後、製紙業は、山谷堀や橋場、南千住といった周辺地域へと移っていきました。
現在でも、山谷堀周辺には「紙洗橋(かみあらいばし)」の名残が、橋の欄干のみとして残っています。
「田原町」という名前は、どのようにして付けられたのでしょうか。
寛文年間、1661年から1673年頃になると、この一帯に、多くの人が住むようになりました。
町地が形成されたのです。
そこで町を一丁目・二丁目・三丁目の三つに分けて
「浅草田原町」
としたと伝えられています。
「田原町」という名は、この場所がもともと田畑だったことに由来するとされています。
「「俵」を作っていたから田原町になった」
という由来ではありません。
歴史地名資料では町名の起立時期や由来を断定できないとする記述もあります。
台東区の説明板では
「浅草寺領の田圃だったことにちなむ町名」
と説明されています。
江戸時代の田原町は、一丁目・二丁目・三丁目に分かれていました。
明治5年(1872年)、田原町三丁目が雷門通りを境に南北へ分割されます。
| 雷門通りとの位置 | 明治5年以降の町名 |
|---|---|
| 南側 | 浅草田原町三丁目 |
| 北側 | 浅草北田原町三丁目 |
北側にあったため、「北田原町」の名が付いたのです。
ここで注意したいのは、浅草北田原町には一丁目・二丁目がなかったことです。
当初の正式な町名は「浅草北田原町三丁目」でした。
これは、田原町三丁目の北半分からできた町だからです。
明治45年(1912年)に「浅草北田原町三丁目」という長い町名から「三丁目」が外されました。
そして「浅草北田原町」となったのです。
ただ、一部の町名資料には、改称を「明治44年5月」とする記載もあります。
一丁目・二丁目のない三丁目だったため、整理されたものと考えると分かりやすいかもしれません。

蛇骨長屋から蛇骨湯へ受け継がれた名前
浅草北田原町を語る上で、特に興味深いのが
「蛇骨長屋(じゃこつながや)」
です。
昔、蛇の骨のようなものが掘り出されたため、その名で呼ばれるようになったという伝承がありました。
台東区の「旧町名由来案内」には
「むかし、本町内に「蛇骨長屋(現在の蛇骨湯付近)」というところがあった。「蛇の骨らしいものの出土」に由来する」
と記されています。
さらに、文政年間にまとめられた「江戸町方書上」には、田原町三丁目について
「北の方の町端へ寄り湯屋これあり候場所を里俗に蛇骨長屋と唱え候」
と記されているのです。
蛇骨長屋の名を、後世に伝えていたのが「蛇骨湯(じゃこつゆ)」という銭湯。
かつて浅草一丁目11番11号にありました。
江戸時代から続くとされた歴史のある銭湯で、地下からくみ上げる黒褐色の湯でも知られていたのです。
しかし、2019年(令和元年)5月31日をもって営業を終了しています。
注目すべき点は、蛇骨長屋と湯屋が、江戸時代から結び付いていたことです。
2019年まで営業した蛇骨湯が、同じ経営者によって、途切れず続いてきたのかは確認できません。
しかし、後世、この場所に「蛇骨湯」という銭湯が存在したのは、偶然ではないと考えられます。
江戸末期の切絵図「今戸箕輪浅草絵図」には、田原町三丁目の西側に、独立した地名のように「蛇骨長屋」と記されていました。
「蛇骨長屋」は一棟だけの建物名というより、長屋と湯屋を含む一角全体の俗称として、定着していた可能性もあります。
そして、昭和40年(1965年)8月1日に、住居表示実施されました。
浅草北田原町は周辺の町とともに、現在の「浅草一丁目」へ編入されたのです。
これによって、約93年間使われた北田原町の名は、住所から姿を消しました。
町名の変遷をまとめると、次のようになります。
| 時期 | 町名・土地の変化 |
|---|---|
| 江戸時代以前 | 浅草寺領の田圃 |
| 江戸時代初期 | 紙漉きに従事する人がおり、紙漉町とも呼ばれる |
| 寛文年間ごろ | 町地となり、浅草田原町一・二・三丁目に分かれる |
| 明治5年(1872年) | 田原町三丁目の北側が浅草北田原町三丁目となる |
| 明治45年(1912年) | 台東区説明板によれば浅草北田原町に改称 |
| 昭和40年(1965年) | 住居表示により浅草一丁目となり、町名が消滅 |
現在、東京メトロ銀座線に「田原町駅」があります。
駅名は旧田原町の名を残したものです。
ただし、浅草北田原町がそのまま駅の所在地だったわけではありません。
北田原町は、雷門通りの北側、現在の浅草一丁目にあり、旧田原町一・二・三丁目は雷門通りの南側を中心とする現在の雷門一丁目付近にありました。
そして「蛇骨長屋」の名を受け継いだ銭湯「蛇骨湯」は、江戸の俗称を現代まで伝えた貴重な存在だったのです。



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