なぜ「お化け地蔵」と呼ばれているのか
台東区橋場の住宅街を歩いていると、少し不思議な空間に出会うことがあります。
民家に囲まれた路地。
そこに、静かに立つ大きなお地蔵様がいます。
ここは、通称「お化け地蔵」と呼ばれている場所です。
観光地のような案内があるわけでもなく、知らなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうな一角です。
けれど、ひとたび足を止めて中をのぞくと、そこには落ち着いた空気が流れています。
アサヒ会通りから隅田川へ向かう途中、路地に入ってすぐ、ずっと大きなお地蔵さまのお姿がありました。
周囲の建物との対比もあってか、その存在感はいっそう際立って見えます。
「え、こんなところに?」
そんな言葉が、思わず口をついて出そうになります。
表情はとても穏やかで、怖さはまったく感じません。
むしろ、この場所を静かに見守っているような、やさしい雰囲気があるのです。
足元には、小さなお地蔵さまが寄り添うように並び、前掛けをかけてもらっています。
今も誰かが、きちんと手を合わせていることが伝わってきます。
このお地蔵さまは、いつの頃からか
「お化け地蔵」
と呼ばれるようになったそうです。
理由について、はっきりとした伝説が残っているわけではありません。
「背が高く、普通のお地蔵さまよりも大きいこと」
「かつては大きな笠をかぶっていて、その向きが変わったことがあった」
など、いくつかの話が伝えられています。
ただ、実際に目の前に立ってみると、呼び名から想像するような怖さは全くありません。


この場所は、かつて「総泉寺」の境内だった
「お化け地蔵」の右隣には、「松吟寺(しょうぎんじ)」というお寺があります。
そして、この一帯は、もともと禅宗の寺院「総泉寺(そうせんじ)」の境内地だったと伝えられています。
お化け地蔵のあるあたり(台東区橋場)は、江戸時代から戦前にかけての下町や寺院の境内地が続いていた地域です。
この辺りの旧地名は「浅茅ヶ原(あさぢがはら)」と呼ばれていました。
これは、江戸時代の文献にも記され、松並木や広い原野のような風景があったと伝えられています。
つまり、現代の住宅街の風景となる前は
「お寺の広い境内とその周辺の里山や原っぱ、松林の風景 が広がる地域だった」
といわれているのです。
地蔵菩薩自体が、日本では古くから身近な信仰の対象でした。
地蔵は仏教では子どもや旅人、道端の守り神としても信じられ、人々の日常の安全や健康を願って立てられることが多かった のです。
総泉寺は、昭和4年(1929年)に板橋区へ移転しました。
その際、この場所に残る石仏や仏塔を供養するために建てられたのが、現在も残る供養塔の碑。
総泉寺が移転したあと、この場所に残された諸仏や石仏を弔い、供養するために建てられたものと考えられています。
派手ではありませんが、この場所がただの路地の一角ではなく「祈りの場」として受け継がれてきたことを物語っています。
「お化け地蔵」の前には、花が供えられていました。
誰が、いつ、どんな思いで手を合わせているのかは分かりません。
ただ、こうして手入れがされているということは、この場所が、今も誰かの心の拠り所であることの証なのでしょう。
台東区の路地の奥に、ひっそりと残る「お化け地蔵」と供養塔。
そこには、大きな歴史の物語はないのかもしれません。
でも、この町の片隅で、長い時間、人々の暮らしと一緒に立ち続けてきたのです。
こうした場所に出会うたびに、この町は、目に見えない「祈り」や「記憶」を、今もそっと抱えながら続いているのだと思います。




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