※ この記事は後編です。前編はこちら
消えゆく街を見つめた作家「永井荷風」氏
次に、永井荷風(ながい かふう)氏です。
永井氏は、山谷を最も多く描いた小説家・随筆家です。
吉原・玉姫・日本堤・山谷の地域を粘り強く描写し、遊郭や貧民街、労働者の姿を作品に残しました。
代表作に「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」があります。
永井氏は「山谷・吉原の記録者」とも言える存在です。
文学史では「耽美派」「反近代の作家」と説明されることもありますが、
山谷・下町の視点で見ると、近代化していく東京の中で、消えていく下町を記録し続けた作家でした。
永井氏の作品は、説教し過ぎたり、評価を押し付けることもなく、読者に委ねる、という特徴があります。
永井氏は、浅草や吉原、玉姫稲荷、隅田川周辺と、台東区・墨田区の境界に広がる地域を繰り返し歩き、書き残したのです。
華やかな観光地としての浅草ではなく、裏通りや路地、そこに生きる人々を描きました。
永井氏が好んだのは、表舞台ではない場所、近代化から取り残されつつある街、そして、ありのままの庶民の暮らし。
その文章には、貧しさ、退廃、それでも残る人間らしさが、飾らずに描かれています。
貧しさと孤独を、そのまま言葉にした「石川啄木」氏
次に、貧困と病の詩人「石川啄木」氏です。
石川氏は、生活苦と病に苦しみながら、東京の下町を転々していました。
山谷近辺にも足を運び、「貧しさ」そのものを作品にしています。
【石川啄木氏の歌】
「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」
この歌の背景にある生活圏が、まさに山谷周辺です。
文学史で「天才歌人」と言われた石川氏。
しかし、その人生は華やかものではないのです。
定職に就けず、借金や家族を支えられない不安、そして都会での孤独の中での感情を、短歌にして残しました。
石川氏は、東京で成功した文化人ではありません。
むしろ、東京に出てきたが、うまくいかなかった若者です。
浅草や上野は、当時から人が集まり、
仕事も夢も集まる場所でしたが、
同時に、行き場を失う人も多い場所でもありました。
浅草・上野周辺を生活圏とし、住まいを転々としながら仕事を探して歩いた石川氏。
その短歌は、生活の苦しさ、心の揺れ、人に言えない本音を隠さないという特徴があります。
だからこそ、時代が変わっても、読む人の心に引っかかるのです。
うまく生きられず、石川氏は都会の片隅で言葉だけを残し、26歳で生涯を終えました。
しかし、その言葉は、今も生きています。
文学者であると同時に、国家に仕えた知識人「森鴎外」氏
森鴎外氏は、山谷の近くである上野に住まいがあり、正岡子規氏とも交流がありました。
医者として、そして作家として、下町と知識人の世界を結んだ存在であったのです。
当時の上野は、官庁や博物館、学問、軍事、そして、公園という新しい公共空間が集まる、近代東京の象徴でした。
森氏は、その中心で生活し、思索し、作品を書いた人物です。
その特徴として、感情を前に出さず、理性や制度、歴史を重視していました。
また、浅草や山谷の庶民生活を直接描くことは少ないこともあります。
下町とは「距離」を持った視線を持ち、下町の内側から書いた人ではありません。
近代東京を構造として見ていた人物とも言えます。

病と病と向き合いながら執筆をした正岡子規氏。
消えていく街を歩いた永井荷風氏。
生活に翻弄されつつ、感情をそのまま言葉にした石川啄木氏。
近代という時代を形づくった側に身を置き、東京を考えた森鴎外氏。
山谷は、ただの「ドヤ街」ではなく、時間と人が積み重なった街であり、様々な文化人を生み出した街でもあったのです。

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