路地に残った、小さな稲荷の意味
山谷(台東区日本堤周辺)の住宅地の中。
周囲には簡易宿泊所があるほか、高齢者支援施設もあります。
この高齢者支援施設は、その昔、公立中学校でした。
この閑静な住宅街の中に、ひっそりと小さな祠型の稲荷社があります。
賽珠稲荷神社(ほうじゅいなりじんじゃ)は、「町の守り神」「生活神」に近い存在で、観光の神社ではなく、地域の人の信仰で残ってきた神社。
寺社勢力が作った神社ではなく、生活の不安から守るために生まれた神様です。
山谷は宿場でも門前町でもなく、人が流入し続ける町でした。
そのため、大社よりも、こうした小さな稲荷が多く残ります。
江戸の下町では「大元の鎮守(中心)」「生活単位の小祠(衛星的存在)」が、別に存在する構造があったといわれます。
●玉姫稲荷神社=地域の総鎮守
●賽珠稲荷神社 ほか多数の路地稲荷=生活圏の守り神
賽珠稲荷神社のような祠は、山谷という地域の性格を物語っています。
「定住より滞在の町」「戸籍より現実の生活」「信仰より祈り」というものでした。
つまり、玉姫稲荷神社が「町の神様」なら、賽珠稲荷は「人の神様」になるのかもしれません。



人が神様を連れて歩いた町
賽珠稲荷神社の祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」という、食・商売・生活の稲荷神です。
江戸時代から続く信仰で、町の人々が祀った信仰の稲荷として始まりました。
生活の守護神です。
山谷地域の一帯は「道路整備」「区画整理」「地権変更」が繰り返されました。
そのため、この稲荷社は場所を、何度も移されています。
特に、明治の地租改正、土地所有の変化によって、元の場所から離れたのです。
大正12年(1923)の関東大震災では、社殿が焼失し、周辺地域は壊滅しました。
しかし、氏子により再建。
一度なくなり、地域住民が復活させた神社なのです。
(ブログ記事「関東大震災・前編」を参考)
その後、太平洋戦争が開戦。
昭和20年の東京大空襲でも被害に遭いました。
それでも、仮祠と再建を繰り返し、最終的に現在地へ定着したのです。
(ブログ記事「太平洋戦争中の山谷」を参考)
山谷は、定住者や地主が変わるほか、建物が建て替わるという地域。
土地ではなく、人の信仰が神社を存続させた典型例です。
この稲荷社が残ったのは、場所ではなく、祈る人がいたからでしょう。
賽珠稲荷神社は、大きな神社のような、神域を守り続けたのではなく、人が神様を連れて歩いた神社だったのかもしれません。





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