江戸の人口を支えた寺院の墓地
東京で最も「お寺の多い地域」と言われるのが台東区。
谷中や上野桜木周辺は、東京最大級の「寺町」というほど、寺院が密集しています。
なぜなのでしょうか。
江戸時代のこと。
江戸では、大火が何度も起きました。
特に有名なのが「明暦の大火」です。
この大火で、江戸の大半が焼けました。
この大火で、江戸の大半が焼けました。
その後、幕府は都市の再建を進めます。
火事の延焼を防ぐため、城の周りを整理し、多くの寺院を郊外へ移転させることにしました。
その移転先が、浅草・上野・谷中周辺。
この地域は、現在の台東区にあたります。
この江戸時代に、上野や谷中へ、寺院が集中して移されました。
台東区には「寛永寺」「浅草寺」など、江戸時代から続く寺院文化が残っています。
また、明治以降には「谷中霊園」も整備され、この地域は現在も東京有数の墓地・寺院の集まる地域となっています
特に「谷中」は東京最大級の寺町です。
江戸時代には、今のような公営墓地がありません。
人が亡くなると、お寺の墓地に埋葬されるのが基本でした。
そのため、お寺は「墓地」「葬儀」「法事」を担う重要な施設でもあります。
100万人とも言われる江戸の人口。
大量の墓地が必要でした。
それを支えたのが、上野・谷中の寺院群です。
山谷周辺のお寺が持つもう一つの役割
台東区の山谷は、谷中・浅草・上野周辺ほど、お寺が密集しているわけではありません。
ただ、歴史的な背景から、お寺の数そのものよりも
「特定の役割を持つお寺」
が目立つ地域です。
【遊女が埋葬されたお寺の存在】
山谷のすぐ近くの三ノ輪には「浄閑寺(じょうかんじ)」というお寺があります。
江戸時代、吉原遊郭で亡くなった遊女たちが葬られていました。
この悲劇的な歴史が、地域のイメージと結びついている面があります。
【供養の場としての役割】
かつて山谷の北側には「小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)」がありました。
現在の南千住です。
そのため、処刑された人々を供養する「首切り地蔵」で有名な「延命寺(えんめいじ)」など、慰霊に関わるお寺が点在しています。
【簡易宿泊所との繋がり】
戦後の山谷は、短期労働者の街として発展しました。
身寄りのないまま亡くなった方を供養するため、地元の寺院や教会が、長年、支援活動を行っていたのです。
現在、山谷を歩いてみると、その景観が印象に残りやすいかもしれません。
アーケードが撤去された、いろは会商店街。
簡易宿泊所が立ち並ぶ通り。
スカイツリーが大きく見える直線道路。
お寺の数でいえば、谷中や浅草の方が圧倒的に多いです。
しかし、山谷周辺のお寺は
「江戸の影の歴史」
そして
「労働者の歴史を支えてきた」
という、とても濃い歴史的な背景を持っているのです。


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