なぜ下町・山谷には銭湯が多かったのか
下町や山谷は昔、銭湯がとても多い地域でした。
これは偶然ではなく、はっきりした理由があります。
昭和中期くらいまで、下町の住宅(長屋や簡易宿泊所)には、風呂がないのが当たり前でした。
特に山谷のような地域では
「1日単位で働く人向けの簡易宿泊所」
「狭い長屋」
が多く、自宅に浴室を作る余裕がなかったのです。
そのため
「風呂=銭湯に行くもの」
という生活が根付いていました。
そして、銭湯は単なる入浴施設ではなく、地域の社交場でもありました。
「顔なじみ同士の会話」
「仕事の情報交換」
「常連同士の付き合い」
山谷では、労働者同士のつながりの場でもあったのです。
下町は人口密度が高く、徒歩圏で生活する文化です。
そのため
「数百メートルごとに銭湯1軒」
「歩いて行ける距離に銭湯」
という配置で、商売として成立していました。
また山谷では、仕事帰りにサッと入る短時間利用の入浴者が多く、回転が早い銭湯文化がありました。
1日単位で働く人の時間帯に合わせて、
遅くまで営業する「深夜営業の銭湯」も存在したのです。
現在は住宅に風呂が普及したため、
銭湯の数は大きく減っています。
ただ、下町では
「昔ながらの銭湯」
「リノベーション銭湯」
も残っており、文化としての価値が見直されていることもあります。
銭湯文化を広げた江戸時代
下町や山谷地域に、銭湯が多いのは、江戸時代の政策や都市構造が
「銭湯文化を広げた下地になった」
という歴史的な背景もあります。
ただ、江戸幕府が公式に
「内風呂(=家のお風呂)を法律で一律禁止した」
という記録はありません。
それなのに、なぜ江戸の人々は家にお風呂を作らなかったのでしょうか。
江戸の町で内風呂が普及しなかったのには、主に3つの現実的な理由がありました。
【火災への恐怖】
最大の理由は、火事対策です。
江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火災が多い街。
狭い長屋で各世帯が火を焚いてお湯を沸かすのは、あまりにリスクが高すぎたのです。
幕府は法律で禁止こそしませんでしたが「火の用心」の観点から、密集地での内風呂設置を、事実上、厳しく制限・指導していました。
個別に火を使うより、銭湯に集約した方が安全だったのです。
【建築構造の制約】
当時の一般的な住まいである「長屋」は非常に狭く、排水設備も整っていなかったのです。
つまり、風呂を作るスペースがありません。
ほかに、家の中に湿気がこもると、柱が腐りやすくなります。
そのため、大家さんも内風呂を嫌がりました。
【コストの問題】
お湯を沸かすための「薪(まき)」は、江戸では非常に高価な買い出し品でした。
個人で沸かすよりも、銭湯で大勢で共有する方が圧倒的に経済的だったのです。
人口密度が高い江戸で、銭湯はビジネスとして成立しました。
上記のほかに「贅沢禁止令」も、間接的な影響があったようです。
幕府は度々、奢侈(しゃし)禁止令を出しています。
「豪華な設備や大きな風呂」
「過度な生活設備」
などが抑制する傾向がありました。
ただ、これは風呂そのものの禁止ではなく、あくまで贅沢の抑制です。
その結果として、個人で風呂を持ちにくい環境になっていました。
江戸時代の銭湯は、単に体を洗う場所ではありません。
娯楽施設や社交場(サロン)としての側面が強かったのです。
江戸では、すでに
「銭湯(湯屋)に通う文化」
が一般化していました。
そして、江戸のこの構造が、そのまま明治以降にも引き継がれます。
山谷地域でも、簡易宿泊所、風呂なし住宅が多く残りました。
「銭湯に行く生活」
が戦後まで続いたのです。
しかし、銭湯は幕府に作らされた文化ではありません。
銭湯は、江戸という都市が、自然に生み出した「生活の知恵」だったのです。

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