源義家伝説が残る神社
台東区浅草橋に、非常に歴史のある八幡神社があります。
その神社は「銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)」です。

JR浅草橋駅東口から徒歩2分ほどの場所にあり、ビル街の中に突然、静かな森のような空間が現れる神社として知られています。



八幡神社(はちまんじんじゃ)は、応神天皇(誉田別尊)を主祭神として祀る神社。
武神・殖産興業・厄除けの神として広く信仰されています。
創建は1062年(康平5年)と伝えられています。
源頼義(みなもと の よりよし)氏・源義家(みなもと の よしいえ)氏の親子が「前九年の役」で奥州へ向かいました。
その途中、この地で休憩した際、川の上流から銀杏の枝が流れてきたのです。
源義家氏は、その枝を丘に立て
「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」
と戦勝祈願をしたとされています。
戦いの後、この地へ戻ると、銀杏が大きく育っていたのです。
その神恩への感謝として、八幡神を祀ったのが始まりと伝えられています。
この伝説から
「銀杏岡(いちょうがおか)」
という名前が生まれました。



江戸時代に入ると、福井藩松平家の屋敷地となりました。
その後、幕府によって土地が町人地として整備され、周辺の鎮守として地域に根付いたのです。
浅草橋周辺は、問屋街やものづくりの街として知られていますが、江戸時代から商人や職人の町でもありました。
福井藩松平家の屋敷があったことから、周辺には「福井町」という旧町名も残されたのです。


都会の中の静寂
銀杏岡八幡神社は、江戸の下町文化で育まれた子守唄を後世に残した人物と、深く縁でつながっています。
この神社を管理する別当寺(べっとうじ)で「覚吽院(かくうんいん)」という寺院がありました。
その別当寺に、行智(ぎょうち)上人という僧侶がいたのです。
行智上人は、江戸時代に伝わった子守唄やわらべ歌を集成した「童謡集」を著しました。
「寝かせ唄」「見覚め唄」「遊ばせ唄」など細かく分類。
子供の暮らしなどを書き残し、その伝承に努めたのです。
神社の境内には、その案内板が残っています。
神社は本来、神職(神主)が祭祀を行う場所ですが、中世~江戸時代にかけて、実際の事務や儀式の一部を、仏教側(僧侶)が担うこともありました。
その担当寺院を「別当寺」と呼びます。
具体的には、神社の祭礼の運営、境内の維持管理、記録の保存などを行っていました。
そして明治時代になり、政府は「神仏分離令」を発布。
神道と仏教を強制的に切り離しました。
これにより全国の別当寺は神社との関係を断ち切られたのです。
銀杏岡八幡神社の別当寺である「覚吽院」は、この流れによって「廃寺」となりました。

創建の際に植えた大銀杏は、江戸時代の大火で焼失したとされています。
その後、明治神宮から新たな銀杏の木を授与されました。
今では浅草橋に深く根を張り、街を行き交う人々を見守っています。


本殿のほかに、境内社として
「此葉稲荷神社(このはいなりじんじゃ)」
も鎮座しています。
赤い鳥居と、白い社殿の対比が印象的。
商売繁盛や衣食住の守護神「おいなりさん」として親しまれています。



参道には、少し頭が大きく二頭身のような愛らしいフォルムをした狛犬が鎮座しています。
境内には、1814年(文化11年)に奉納された江戸狛犬が鎮座。
そして社殿前には、1992年(平成4年)奉納の狛犬が鎮座しています。
その独特なビジュアルから愛好家の間でも人気があるようです。





御朱印は、季節や祭事に応じた「限定御朱印」も用意。
銀杏の葉が色づく秋には「錦秋詣」の「特別御朱印」が授与されます。
銀杏の切り絵が施された見開き仕様の美しいもの。
また、銀杏をモチーフにしたお守りや、本物の銀杏の葉をパウチしたユニークなお守りなどが授与されています。



そして境内では、戦前から毎日「ラジオ体操」が行われていることでも有名。
地域コミュニティの拠点としての側面も持っています。
入口に「浅草橋いちょう朝市」の告知もありましたね。

都会の喧騒の中にありながら、一歩足を踏み入れると静かで落ち着いた空気が流れる場所。
ものづくりの街・浅草橋らしく、商売繁盛祈願で訪れる人も多いそうです。

アクセス
- JR「浅草橋駅(東口)」から徒歩2分。
- 都営線「浅草橋駅(A3)」より徒歩2分。



ご感想・思い出などお寄せ下さい