馬道という名前の由来と江戸時代の役割
浅草寺の東側を歩いていると「馬道通り(うまみちどおり)」という名前を目にします。
一見すると不思議なこの名前。
そこには江戸の名残が、今も刻まれています。


この通りは「浅草馬道(あさくさうまみち)」と呼ばれていました。
現在の台東区浅草から花川戸にかけて通っている馬道通りを指します。
この通りの名前には、江戸時代の諸説があります。
【浅草寺の馬場へ向かう道の説】
浅草寺には、馬場がありました。
武士や僧などが、馬場で馬術を練習していたのです。
その馬場へ行く時に、この付近を通ったことから「馬道」と呼ぶようになった説。
【格式ある特別ルートの説】
現在の雷門通りのようなメインルートとは別に、浅草寺へ向かう裏参道がありました。
身分の高い人々が、馬に乗ったまま通れる道が整備されていたのです。
そのため「馬で通れる道=馬道」と呼ばれたという説もあります。
【吉原への遊客が馬で通った道の説】
浅草寺東側の通りは、山谷堀(=現在の待乳山聖天付近)を抜けて、新吉原遊郭へと向かう交通路でもありました。
浅草参拝を終えた人々が、そのまま吉原へ向かう際の通り道としても、にぎわったようです。
遊客が馬を利用して、吉原遊廓へ通う道筋であったことが由来という説もあります。
ただ「馬道」という町名は、相当古くからあったようです。
「御府内備考」によると、すでに江戸時代初期には
「南馬道町」
「北馬道町」
の名がありました。
1730年(享保15年)には「南馬道新町」もでき、浅草寺の東側一帯が、浅草寺子院街として発展。
1877年(明治10年)になると、この一帯が整理統合されて「浅草馬道町」となりました。
1934年(昭和9年)には、隣接する町を合併。
さらに町域を広げて「浅草馬道」と改められました。


現在の馬道通りと見どころ
馬道地区は、江戸の風情を今に残す情緒溢れる一角。
この地区は
「観音裏」
「奥浅草」
とも呼ばれていました。
浅草寺の裏手に広がる落ち着いた場所であり、江戸時代は吉原遊郭(=新吉原)へと向かう主要な道のひとつでもあったのです。
明治から大正時代にかけて、馬道周辺でも花川戸エリアは、履物問屋街として急速に発展しました。
昭和時代に入ると、路面電車が通り、浅草にある玄関口のひとつという役割を強めていったのです。


現在の馬道通りは、浅草寺の東側を南北に走り、浅草を代表する行事も行われる大通りとなりました。
【三社祭】
浅草神社の三社祭では、お神輿が威勢よく駆け抜ける、重要な舞台となります。


【二天門】
通り沿いには浅草寺の重要文化財である「二天門」があります。
歴史的な趣を、今に伝えています。


【スカイツリーの眺望】
吾妻橋方面へ向かう視界が開けています。
現代の東京らしい景色を眺められる場所となりました。

様々な由来を持つ「浅草馬道」と呼ばれた通り。
現在は、観光客や地元の人々が、にぎやかに行き交う大通りへと姿を変えました。




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