東京には二つの「なみだ橋」があった
山谷の泪橋と非常によく似た由来を持つ「なみだ橋」が、東京都品川区に現在もあります。
ただし、品川の「なみだ橋」は
「涙橋」
になります。
現在の正式名称は「浜川橋(はまかわばし)」です。
品川区東大井・南大井付近、旧東海道が、立会川を渡るところに架かっています。
なお、立会川の下流部は、浜川とも呼ばれていました。
浜川橋は、立会川が海に注ぐ河口付近に架かる橋なのです。


平成25年(2013年)3月に品川区で「品川区民憲章制定30周年記念 組曲「しながわ物語」同声三部合唱譜」が発行されました。
資料編「11.別離のバラード」の「鈴ヶ森刑場と泪(なみだ)橋」という解説で
「旧東海道の立会川(浜川)に架かる浜川橋は、一名「泪橋」と呼ばれる」
と、浜川橋について明確に「一名「泪橋」」と説明。
そして驚くほど山谷と似ています。
| 南千住・山谷 | 品川 | |
|---|---|---|
| 刑場 | 小塚原刑場 | 鈴ヶ森刑場 |
| 開設 | 1651年 | 1651年 |
| 江戸から見た方向 | 北 | 南 |
| 街道 | 日光・奥州方面 | 東海道 |
| 川 | 思川 | 立会川(浜川) |
| 橋 | 泪橋 | 涙橋(浜川橋) |
| 名称の伝承 | 罪人・見送り人との別れ | 罪人・見送り人との別れ |
| 「なみだ」の意味 | 今生の別れ | 今生の別れ |
鈴ヶ森刑場は、慶安4年(1651年)に設けられました。
そこへ護送される罪人。
親族らが見送り、この橋で涙を流して別れたことから「涙橋」と呼ばれたとされています。
つまり、山谷の泪橋とほぼ同じ由来なのです。
これは偶然というより、江戸の刑場配置と関係しています。
江戸の北の出口には、小塚原刑場と山谷の泪橋。
江戸の南の出口には、鈴ヶ森刑場と品川の涙橋。
しかも、どちらも
「刑場そのものに架かっていた橋」
ではありません。
罪人が刑場へ向かう途中で渡る橋であり、親族や縁者との今生の別れの場所だったという伝承から「なみだ橋」と呼ばれたという点まで共通しています。
山谷の泪橋との大きな違いは、品川区の涙橋は
「現在も橋がある」
ことです。
山谷の泪橋は、思川が姿を消したため、現在は、橋そのものがありません。
「泪橋交差点」という名称などに痕跡が残っています。
一方、品川の涙橋は現在もあります。
なお、浜川橋こと、品川区の涙橋は、昭和9年(1934年)に架け替えられたものです。
山谷の泪橋は、単独の奇妙な名前ではありません。
江戸の刑場と街道、そして
「最後の別れ」
という文化の中に、位置づけられていました。


江戸の北と南にあった刑場
では、どちらの橋が先に
「なみだ橋」
という呼称で登場するのでしょうか。
結論からいうと、現時点で確認できる史料だけでは
「山谷の泪橋と、品川の涙橋のどちらが先に命名されたか」
を断定できません。
しかし
「たまたま同じ名前になった」
というよりは、江戸の二大刑場に向かう道に、同じ意味を持つ
「なみだ橋」
という呼称が成立したと考えた方が自然です。


まず、二つの刑場は、同じ慶安4年(1651年)に設けられました。
鈴ヶ森刑場については、品川区「しながわデジタルアーカイブ―鈴ケ森の刑場」にて、慶安4年(1651年)に、大井村浜川町南方の一本松付近で、東海道往還西側の土地を召し上げ、刑場を造ったことが明記。
また、小塚原刑場については、荒川区「荒川区史 上巻(平成元年版)」および荒川区教育委員会の解説・文化財資料「橋本左内と小塚原の仕置場」「杉田玄白と小塚原の仕置場」にて、慶安4年(1651年)に開設されたことが記載されています。
さらに、平凡社「日本歴史地名大系」の「鈴ヶ森刑場跡」にも、江戸北部の小塚原刑場に対する南の刑場として慶安4年(1651)に設置されたとあるほか、黄木土也氏「小塚原刑場史」に開設から明治初期の廃止に至るまでの歴史的経緯がまとめられていました。
つまり
江戸の北:小塚原刑場―泪橋
江戸の南:鈴ヶ森刑場―涙橋
という構造が、ほぼ同時期に成立したのです。
ただ
「橋ができた時期」
と
「なみだ橋と呼ばれた時期」
を分ける必要があるようです。
品川区の涙橋こと、浜川橋が最初に架橋されたのは、徳川家康氏の江戸入府後である1600年頃。
そして、1651年に鈴ヶ森刑場が開設され、その後「涙橋」という呼び名が成立しました。
そのため、刑場が設けられる前の1600年頃は、まだ「涙橋」と呼ばれていなかったはずです。


南千住についても同様で、思川そのものは、小塚原刑場よりはるか以前から存在していました。
ただ、いつ、思川に橋がかけられたのかを示す史料は、確認できていません。
思川は、文明18年(1486年)、道興准后が関東を巡った「廻国雑記」に登場します。
小塚原刑場ができる約165年前です。
思川に、橋はあったのでしょうか。
慶長2年(1597年)、千住宿は
「人馬継立の場所になった」
と、足立区「新修足立区史 上巻」の「千住宿」および東京都立図書館「名所江戸百景 千住の大はし」といった資料から伝えられています。
また、慶長9年(1604年)には、日本橋を起点として、五街道が定められました。
奥州道中の第一宿が、千住宿だったのです。
元和3年(1617年)には、千住で馬を継いでいたようです。
さらに寛永2年(1625年)に、日光道中の宿場として、整備もされました。
小塚原刑場が設けられる1651年よりも前から、千住宿への交通路は存在していたと考えてよいでしょう。
江戸を浅草方面から、小塚原付近の千住大橋を通り、千住宿へ向かったことが想像できます。
そうなると、当然
「その道が思川をどうやって通っていたのか」
という疑問が出てきます。
川を横断していた以上、水路の状態によっては、橋を必要としなかった場合を除いて
「橋」
もしくは
「板橋など簡素な渡河施設」
があったのではないかと思います。
刑場ができるはるか以前から存在した思川。
どこか、感情を想起させる名の川です。
その思川の上に、泪橋という名の橋が、後世になって現れました。
思川も、泪橋も、どちらも人の想いを連想させる名前です。

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