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浅草松清町の歴史 ― 水戸黄門ゆかりの寺もあった町 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

浅草松清町の歴史 ― 水戸黄門ゆかりの寺もあった町

2つのお寺の名前を組み合わせた町名

国際通りに「浅草松清町(あさくさまつきよちょう)」の説明板があります。
現在の東京都台東区西浅草一丁目あたりの旧町名。
明治2年(1869年)に誕生し、昭和40年(1965年)に廃止されました。

町名は、かつてこの地域にあった2つのお寺に由来します。
「大松寺(だいしょうじ)」の「松」
「清光寺(せいこうじ)」の「清」
この2文字を組み合わせて「松清町」と名付けられました。

国際通りの歩道に立つ「旧町名由来案内 旧浅草松清町」の説明板
国際通りの歩道に立つ「旧町名由来案内 旧浅草松清町」の説明板
台東区が設置した「旧浅草松清町」の説明板。町名の由来や旧町域の地図が記されている
台東区が設置した「旧浅草松清町」の説明板。町名の由来や旧町域の地図が記されている

大松寺は、天正元年(1573年)に創建された曹洞宗のお寺。
もともと現在の中央区馬喰町付近にありましたが、1657年の「明暦の大火」で焼失。
この大火後、江戸幕府は防火対策のため、馬喰町や神田などにあった寺院を浅草へ移転させました。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると、1657年だけで、34の寺院が浅草へ移転しています。
馬喰町にあった大松寺も「明暦の大火」で類焼した後、浅草へ移転。
そして昭和初期には、現在の東京都北区西が丘へ移転しました。

年代 出来事 場所
1573年
(天正元年)
曹洞宗・青松寺の第8世住職、頭室伊天大和尚によって創建される。 江戸・馬喰町
1657年
(明暦3年)
明暦の大火によって焼失。幕府から浅草に代替地を与えられる。 馬喰町
1657年以降 浅草へ移転し、寺院の門前に町が形成される。 浅草
1869年
(明治2年)
大松寺門前と清光寺門前が合併し、浅草松清町が誕生する。 浅草松清町
1923年
(大正12年)
関東大震災が発生。その後、寺院の移転が行われる。 浅草
1927年
(昭和2年)
現在の東京都北区西が丘へ移転する。 北区西が丘
現在 曹洞宗・万祥山大松寺として存続している。 北区西が丘1-35-18

清光寺は、浄土宗のお寺。
もともとは駿河国田中領にあった「乗願寺」として創建されています。
寛文5年(1665年)、水戸藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)氏こと、水戸黄門の援助を受けて、江戸へ移り、のちに浅草に落ち着きました。
ただし、移転の経緯は史料によって記述が異なります。
「1665年に直接浅草へ移転した」とするもの
「いったん馬喰町へ移り、その後、浅草へ移転した」とするもの
があるようです。
清光寺は、水戸の黄門様の子供の菩提寺(ぼだいじ)とも伝えられています。

年代 出来事 場所
1594年
(文禄3年)
誉了公(しんよつりょうこう)によって「乗願寺」として創建される。 駿河国田中領
1665年
(寛文5年)
頓誉(とんよ)によって清光寺と改称し、江戸馬喰町へ移転。 水戸藩主・徳川光圀が開基となる。 江戸・馬喰町
1665年以降
(移転年不詳)
第7世住職・実誉快超(じつよ・かいちょう)上人の時代に浅草へ移転したとされる。 ただし、移転時期には資料による違いがある。 浅草
1698年
(元禄11年)
火災によって焼失。その後、水戸徳川家の支援を受けて再建される。 所在地未確定
1772年
(明和9年)
再び火災に遭い、水戸徳川家から資金援助を受けて再建される。 浅草
1869年
(明治2年)
清光寺門前と大松寺門前が合併し、浅草松清町が誕生する。 浅草松清町
1965年
(昭和40年)
住居表示の実施により、浅草松清町の町名が廃止される。 西浅草一丁目
現在 浄土宗・田中山徳生院清光寺として存続している。 台東区西浅草1-7-19

明治2年(1869年)、江戸時代から存在した「浅草大松寺門前」と「浅草清光寺門前」が合併して成立しました。

浅草松清町の周辺は、江戸時代に多くの寺院が集まった地域です。
特に大きな変化が起きたのは、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」以降です。
江戸市中で被災した寺院などが浅草へ移転。
東本願寺の別院をはじめとする寺院が集まるようになりました。
それに伴い、お寺の門前には人々が暮らす町が形成され、寺町として発展したのです。
明治5年(1872年)には、東本願寺や崇福寺などの寺域も組み込まれ、浅草松清町の範囲が広がりました。
そして昭和40年(1965年)の住居表示実施によって、全域が西浅草一丁目に編入され、浅草松清町の名は消滅したのです。

説明板の脇から見た国際通り。アーケードの商店街が続く
説明板の脇から見た国際通り。アーケードの商店街が続く

水戸黄門は、なぜ清光寺を援助したのか

清光寺は、もともと駿河国田中領(現在の静岡県藤枝市付近)にあった浄土宗のお寺です。
徳川光圀氏こと水戸の黄門様(水戸黄門)は、江戸馬喰町へ移転する際の土地や建物、資金などを支援する「開基(かいき)」となっていました。

「御府内寺社備考」によると、水戸の黄門様は
「清光寺に米200俵を寄付した」
という記録があります。
また、清光寺は元禄11年(1698年)に火災で焼失しましたが、その後、水戸藩3代藩主の徳川綱條の時代に再建。

このことからも、清光寺と水戸徳川家の関係は
「水戸黄門一代で終わったものではなかった」
と考えられます。

浅草国際通り商店街のアーケードと説明板。かつての浅草松清町の一角にあたる
浅草国際通り商店街のアーケードと説明板。かつての浅草松清町の一角にあたる

水戸の黄門様は、寺院を支援する一方で、水戸藩領内にある寺社の整理や改革も行っていました。
1667年には、浄土真宗の善重寺を、現在の水戸市内へ移転・再興させています。
したがって、黄門様の寺院支援は、単純に仏教への信仰心だけではなく、藩政によるものもあったのかもしれません。

年代 出来事
江戸時代初期 田畑が宅地へと変わり、 町が形成され始める。
1657年
(明暦3年)
明暦の大火をきっかけに、 浅草本願寺や多くの寺院が 神田などから移転する。
1869年
(明治2年)
大松寺門前と清光寺門前が合併し、 浅草松清町が誕生する。
1872年
(明治5年)
東本願寺などの寺域を編入し、 町域が広がる。
1878年
(明治11年)
東京府浅草区に所属する。
1947年
(昭和22年)
浅草区と下谷区が合併して 台東区が誕生し、 浅草松清町は台東区に所属する。
1965年
(昭和40年)
住居表示の実施により、 西浅草一丁目となり、 浅草松清町の町名が廃止される。
国際通りを挟んで説明板を望む。町名は消えても、説明板が歴史を伝えている
国際通りを挟んで説明板を望む。町名は消えても、説明板が歴史を伝えている

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