「裸の大将(はだかのたいしょう)」
そう聞けば、坊主頭にランニングシャツ、リュックを背負って旅をする、あの姿を思い浮かべる方も多いでしょう。
放浪の天才画家「山下清(やました きよし)」画伯。
花火や風景を、色紙をちぎって貼り合わせる「貼絵(はりえ)」で描き
「日本のゴッホ」
とも呼ばれた画家です。
その山下画伯が、実は、この山谷で生まれたことを、ご存じでしょうか。

山谷の地に、産声を上げて
山下画伯が生まれたのは、1922年(大正11年)3月10日。
生まれた場所は、東京府東京市浅草区田中町。
今の、台東区日本堤(にほんづつみ)です。
この山谷の地です。
裕福な家に生まれたわけではありません。
むしろ、その暮らしは、厳しいものでした。
山下画伯が生まれた翌年、1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、田中町の一帯は、焼け野原になりました。
一家は、いったん両親の郷里である新潟へ。
そして、1926年(大正15年)、再び、この浅草の地へ戻ってきます。
けれど、山下画伯を待っていたのは、さらなる試練でした。
ハンデを負って
3歳の頃、山下画伯は重い病にかかります。
一命は取り留めたものの、その後遺症で、言葉が不自由になり、知的な発達にも、障害が残りました。
10歳のとき、父を亡くします。
母子家庭となった一家の暮らしは、いっそう苦しくなりました。
学校でも、山下画伯は、うまく馴染めませんでした。
言葉が不自由なことで、心ない言葉を浴びせられ、いじめにあったのです。
けれど、山下画伯には、人並みはずれた力がありました。
一度見たものを、細部まで、正確に覚えている。
驚くほどの、記憶力です。
大人でも書けないような難しい漢字を、すらすらと書いてみせた、といいます。
この記憶力こそが、のちに、山下画伯を天才画家へと導く、大きな力になりました。

貼絵、そして才能を信じた人物との出会い
12歳のころ、山下画伯は、千葉県の八幡学園(やわたがくえん)という施設に入ります。
障害のある子供たちが暮らす、学びの場です。
そこで、山下画伯は、運命の出会いをします。
「ちぎり紙細工」
のちの貼絵です。
色紙を、指先で細かくちぎって、少しずつ貼り合わせていく。
その地道な作業の中で、山下画伯の才能は、みるみる花開いていきました。
そして、もうひとつ、大きな出会いがありました。
学園の顧問医(こもんい)だった「式場隆三郎(しきば りゅうざぶろう)」医師との出会いです。
精神科の医師でありながら、絵画にも深い理解のあった式場医師は、山下画伯の貼絵の才能を、いち早く見抜きました。
そして、山下画伯を指導し、その作品を、世に広めていったのです。
限られた色の紙で、まるで油絵のような、豊かな色彩を生み出す。
その繊細さ、その美しさに、当時の名だたる画家たちも、驚き、賞賛したといいます。
障害があっても。
恵まれない環境にあっても。
山下画伯には、才能がありました。
そして、その才能を見出し、信じてくれる人物がいたのです。
放浪の果てに
18歳のとき、山下画伯は、ふらりと学園を抜け出します。
戦争の足音が近づく中、兵隊に取られることへの恐れも、あったといいます。
こうして始まったのが、あの、放浪の旅です。
リュックを背負い、日本各地を歩き、時に働き、時に人の情けにすがりながら、旅を続けました。
旅の途中、山下画伯は、ほとんど絵を描きませんでした。
見た風景を、あの驚異的な記憶力で、心に焼き付ける。
そして、旅から戻ってから、記憶をたどって、貼絵に仕上げたのです。
山下画伯が、何より愛したのは「花火」
代表作「長岡の花火」は、まさに、その旅の賜物(たまもの)でした。
戦後、山下画伯の絵は、大きな評判を呼びます。
1956年(昭和31年)の展覧会は、全国をめぐり、その観客は、500万人を超えました。
山谷に生まれた、ひとりの少年が、日本中の人々に愛される画家になったのです。
同じ空の下で
山下画伯には、言語や知的な障害という、ハンデがありました。
その困難を負いながら、山下画伯は、自分だけの才能を、大きく花開かせたのです。
今、何かに悩んでいる方。
ハンデを抱え、辛い思いをしている方。
恵まれない環境の中で、もがいている方。
そんな方に、山下画伯の人生は、ひとつのことを教えてくれるように思います。
「生まれた場所や、背負ったものが、その人の値打ちを決めるのではない」
ということを。
華やかな浅草の、すぐ隣。
この、山谷の地に、あの山下画伯は生まれ、産声を上げました。
山下画伯が見た山谷の空も、今、私たちが見上げる空と、きっと、同じ色をしていたはずです。


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