浅草寺の宝蔵門(ほうぞうもん)の手前を、右手へ。
そこには、観音様や大きな門に気を取られて、つい通り過ぎてしまう仏様やお堂が、いくつも並んでいます。
今日は、そのうちの二つ。久米平内堂(くめのへいないどう)と、母子地蔵(ぼしじぞう)をご紹介します。
どちらも、人の切実な思いが宿った場所です。
罪と祈りの久米平内堂
二尊仏のそばに、小さなお堂があります。
久米平内堂です。


ここにまつられている久米平内(くめのへいない)氏は、江戸時代の初めごろの人と伝えられています。
剣の道に、たいそう優れた人でした。
けれど、その腕ゆえに、多くの人の命を奪ったともいわれます。
晩年、久米氏は、自らの罪を悔いました。
そして、罪を償(つぐな)うために、こう願ったと伝えられています。
自分が禅(ぜん)を組む姿を石に刻み、自分が死んだあと、人通りの多い門の近くに埋めて、大勢の人に踏みつけてもらいたい——と。
罪深い我が身を、人々に踏んでもらうことで、償おうとしたのですね。
ところが、この「踏みつけ」が、思わぬかたちで人々に親しまれていきます。
「踏みつけ」が、「文付け(ふみつけ)」に通じる。
文(ふみ)とは、恋文(こいぶみ)のこと。
そこから、久米氏は、いつしか「縁結びの神様」として信仰されるようになりました。

罪を償おうとした人が、めぐりめぐって、人と人の縁を結ぶ神様になる。
なんとも不思議な、けれど、どこか心温まるお話です。
今も、恋の願いを込めて、ここを訪れる人がいます。

幼い頃のジョーとサチがいる母子地蔵
そのすぐ近くに、小さな親子の像があります。
「母子地蔵」です。

お母さんと、二人の子供。
三人が寄り添う、安らかなお姿です。
けれど、その背景には、深い悲しみがあります。
この「母子地蔵」が建てられたのは、平成9年(1997年)。
第二次世界大戦の末期、中国の東北部、かつて「満州(まんしゅう)」と呼ばれた地での、ある悲劇をなぐさめるためのものです。
戦争の終わり、その地にいた多くの日本人が、故郷を目指して逃げました。
厳しい寒さ、飢え、混乱の中で、親と子は生き別れ、あるいは命を落としていきました。
その数は、20万人を超えるとも伝えられています。

犠牲となった母と子の霊をなぐさめたい。
そして、いまだ再会のかなわない親と子の、心のよりどころでありたい。
二度と、戦争という過ちを繰り返さないように。
そんな願いを込めて、この地蔵は建てられました。
像をかたちづくったのは、漫画家のちばてつや氏。
ご自身も、幼い頃に満州からの引き揚げを経験された方です。
題字と碑文は、同じく漫画家の森田拳次(もりたけんじ)氏。
戦争を、その身で知る人たちの、ひとかたならぬ思いが、この小さな像には込められています。
ちば氏は、ご自身のブログで、この地蔵について、こう明かしておられます。
男の子の顔は「あしたのジョー」の幼い頃、女の子はサチ、母親は少女漫画家時代に描いたお母さんの顔のまま——と。


「あしたのジョー」といえば、ここ山谷の土手通りにも、その銅像が建っています。
ジョーが生きた下町の風景と、満州で命を落とした母子への祈りが、この小さな地蔵の上で、そっと重なり合っているのです。
(ブログ記事「川が消えても、道は残った -土手通り・日本堤-」を参考)
おわりに
罪を悔いた人の祈り。
戦争で引き裂かれた、母と子への祈り。
久米平内堂と母子地蔵。
時代も、いわれも、まるで違う二つの場所です。
けれど、どちらにも共通するのは、人の、まっすぐで切実な思いです。
償いたい。
なぐさめたい。
二度と、悲しみを繰り返したくない。
華やかな浅草の、にぎわいのすぐかたわらに、そんな静かな祈りが、今も息づいています。
参拝の折に、ほんの少し足を止めて、手を合わせてみてください。
きっと、遠い人々の思いが、そっと胸に伝わってきます。


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