何百年もの歴史が重なった橋
台東区橋場、荒川区南千住側と墨田区堤通側を結ぶ橋。
その名は「白鬚橋(しらひげばし)」です。
山谷の近くにかかる橋でもあります。


この付近は、白鬚橋がかかる前から、隅田川を渡る重要な地点。
江戸時代の頃から「橋場の渡し」「白鬚の渡し」という渡し舟がありました。
隅田川の東西を結ぶ渡し場、人や荷物を運ぶための航路だったのです。
また、ここから吉原へと向かった人も多かったと伝えられています。



さらに昔、平安時代のこと。
「伊勢物語」の「東下り」で、在原業平(ありわらのなりひら)氏一行が、武蔵国へ向かう途中、隅田川を渡った場所が、現在の白鬚橋周辺とされています。
また、東国支配を始めた源頼朝(みなもとのよりとも)氏は、治承4年(1180年)に隅田川を渡る際、数千の船を集めて「船橋(舟橋)」をかけて、軍勢を渡したという伝承があります。

つまり、このあたりは、古代・中世から、隅田川を渡る「渡河(とか)」地点。
「橋場」という地名も、この地域が、古くから隅田川を渡る場所だったことと深くつながっていると考えられます。
白鬚橋ができる前は「橋場の渡し」だったのです。


白鬚橋は、最初から東京といった行政が造った橋ではありません。
実は、地元住民による「白鬚橋株式会社」が造った橋だったのです。
大正時代のこと。
地元の有志で資金を集め、橋をかける計画を立てられました。
そして1914年(大正3年)、木造の白鬚橋「白鬚木橋」が完成。
ただし、この時の白鬚橋は、橋を渡る人から通行料を取る「有料橋」だったのです。
ちなみに、橋の名前は、対岸の墨田区東向島にある「白鬚神社」の名から付けられました。
最初の白鬚橋は、住民がお金を出して造った民間経営の橋だったのですね。

しかし、民間の木橋だった白鬚橋は大きく状況が変わります。
1923年(大正12年)に、関東大震災が起きたのです。
その後の1925年(大正14年)に、東京府が白鬚橋を買収しました。
東京府の都市計画事業として、新しい橋が建設されたのです。
現在の鋼製アーチ橋である白鬚橋が、1931年(昭和6年)に完成しました。
橋長は約168メートル、幅は約22メートル。
現在も、基本的な橋の姿は、1931年当時のものです。
関東大震災を経て、現在の白鬚橋へとなりました。

「川の手通り」にある石碑
白鬚橋のたもとから「川の手通り」が続いています。
川の手通りは、白鬚橋の西のたもとから、台東区側へ抜ける道の通称。
「山の手」「下町」に対して、隅田川ぞいの一帯を「川の手」と呼ぶことがあり、その名を取った道です。



そして白鬚橋西詰、台東区橋場二丁目の南側に大きな石碑があります。
「明治天皇行幸對鷗荘遺蹟」
の碑です。


白鬚橋ができる前、この辺りには「対鴎荘(たいおうそう)」という別荘があったのです。
別荘の主は、三条実美(さんじょうさねとみ)氏。
明治政府の最高首脳の一人で、太政大臣を務めた人物です。

1873年(明治6年)、政府内では「征韓論」をめぐり、西郷隆盛氏と大久保利通氏、岩倉具視氏たちの意見が激しく対立。
その政治的な心労などにより、三条実美氏は体調を崩しました。
そして、隅田川沿いの対鴎荘で静養。

明治天皇は、1873年(明治6年)12月19日に、この対鴎荘を訪れ、三条実美氏を見舞いました。
その記念をした碑が、白鬚橋のたもとにある石碑です。
こちらの石碑は「明治天皇聖蹟巡り(めいじてんのうせいせきめぐり)」にも含まれています。


では、対鴎荘そのものは、どうなったのでしょうか。
昭和3年(1928年)、対鴎荘は、現在の白鬚橋を架橋工事するため、この場所から多摩の聖蹟記念館に移築されたのです。
戦後は飲食店として使われていました。
その後、移築された建物も老朽化。
1988年(昭和63年)に土地開発もあって取り壊され、現存はしていません。

この白鬚橋西詰は、何百年もの歴史が一か所に重なっている重要な地点だったのです。


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