新吉原の前は田圃と湿地
門はなく、地名と「見返り柳」に、その名残りを残している吉原大門。
土手通りから吉原大門を通って、仲之町通りを歩くと、夜のお店を見かけます。
新吉原の遊郭があった地域。
音無川と日本堤は、この新吉原へ向かう人々の道だったとのこと。
ただ、遊郭は江戸時代の途中で、別の地域から山谷の近くへと移されました。
この時、疑問に思ったのです。
「遊郭ができる前、新吉原と呼ばれた地域は、どんな場所だったのか」
今、台東区千束のあたりにある吉原は「新吉原(しんよしわら)」です。
「新」と付くからには、その前の「吉原」があります。
最初の「吉原」は、今の中央区日本橋人形町のあたりにありました。
こちらが「元吉原(もとよしわら)」です。
元吉原は、元和(げんな)年間、1617年頃に、江戸幕府が遊女屋を、一カ所に集めて公認したのが始まりと伝えられています。
その遊郭が、今の千束・日本堤へ移ってきたのが、明暦3年(1657年)のことでした。
では、新吉原ができる前の吉原は、どんな場所だったのでしょうか。
当時、このあたりは「千束村(せんぞくむら)」という農村の一角でした。
浅草寺の北側には、田畑や湿地が広がっていたのです。
「浅草田圃(あさくさたんぼ)」などと呼ばれていました。
低い湿地や池の多い土地で、江戸の市街地からは外れた郊外。
新吉原は、この田圃や湿地の一部を埋め立て、人工的に造られた町だったのです。
その名残とされるのが、今も残る「吉原弁財天」や「花園池の跡」になります。
つまり、新吉原の遊郭は、もとからあった乾いた土地に建てられたのではなく、水の多い低地を造成して、そこに出現した町だったのです。


元も新も葦の茂る低湿地
でもなぜ、日本橋にあった遊郭が「吉原」という名前だったのでしょうか。
諸説ありますが、よく語られるのは「日本橋の地形に由来する」という説です。
もともと遊郭があった日本橋の一帯は「葦(あし)」が生い茂る湿地でした。
この葦のことを「葭(よし)」とも書きます。
そこで「葭(=葦)の茂る原っぱ」を「葭原(よしはら)」と呼んだと言われています。
これを
「縁起のよい字に改めて「吉原」にした」
という説があります。
ほかにも「葦(あし)」は「悪し(あし)」に音が通じて縁起が悪いため、反対に「善し(よし)」に通じる字を選んで「吉原」としたという説もあるようです。
江戸では、土地の名を、めでたい字に付け替えることはあったのです。
名の由来は、日本橋にあった「元吉原」の土地の様子から来ていました。
その遊郭名は、そのまま、移転後の「新吉原」にも引き継がれました。
しかし、移転先の地域も同じく、葦が茂る低湿地だったのです。


なぜ、この場所だったのか
でもなぜ、幕府は吉原をこの場所へ移したのでしょうか。
いくつかの理由が、重なっていたようです。
1つ目は、元吉原が「町の真ん中」になってしまったことです。
江戸のはじめ、日本橋のあたりは町の外れでした。
しかし、都市が広がるにつれて、遊郭が町の中心部に近くなりすぎたのです。
風紀や治安の面から、幕府は
「遊郭を人の多い場所から離したかった」
と言われています。
2つ目は、浅草寺裏という立地。
移転先の千束・日本堤のあたりは、当時は葦(あし)の茂る低湿地で、人家の少ない場所でした。
江戸の中心から適度に離れてはいますが、浅草寺への参詣客など、人の流れもあります。
「遊郭を隔離しながらも、客足も見込める土地だったから」
と考えられています。
3つ目は、水運です。
この一帯は、山谷堀の水路が通っていたのです。
舟で吉原へ通う「猪牙舟(ちょきぶね)」の道になり、日本堤は歩いて通う道になりました。
「人を運ぶ手立てがあった土地」
という点も、立地の理由として語られます。
江戸の町が広がるにつれ、およそ40年で、吉原(=元吉原)がある日本橋の周りまで町になってしまいます。
そこで幕府は、明暦2年(1656年)、吉原(=元吉原)に、郊外への移転を命じました。
その翌年(1657年)に「明暦の大火」がおき、元吉原が消失。
移転そのものは「明暦の大火」の前年のため、すでに決まっていたことなのでしょう。
ただ、この大火で元吉原が焼けたことにより、移転が現実のものとなっていきました。
移転先の候補は「本所(ほんじょ)」の方面か、浅草・山谷の「日本堤」の近く。
「日本堤の近く」を選んだのは、吉原の側だったそうです。
本所へ行くには、隅田川を越えなければなりません。
しかし、日本堤の方面なら、川を渡らずに、陸の道で行くことができます。
客の便を考えると、日本堤の近くのほうが都合がよかったのかもしれません。
ちなみに、新吉原の正式な営業開始前、明暦の大火後に「仮宅」として「今戸村」「山谷村」「新鳥越」で営業することまで認められていました。
山谷の地域は、新吉原で遊郭が成立した時点から、密接なつながりがあったことが伺えます。


水と土手と道が、町をつくった
浅草寺があり、その北には浅草田圃が広がります。
その先に新吉原が造られ、日本堤が伸び、山谷や三ノ輪へと続いていくのです。
新吉原ができると、日本堤は、吉原へ通う人々の主要な道になりました。
ブログ記事「三ノ輪と山谷を結んだ「音無川」の水路と「浄閑寺」」にある安藤広重氏の「名所江戸百景」の吉原土手が、まさにこの道です。
「山谷」「三ノ輪」「日本堤」「新吉原」も、同じ低い土地に生まれ、一本の同じ水路で結ばれていました。
後世の解釈として紹介されますが
「吉原へ通う客に日本堤を歩かせ、堤を踏み固めさせるために、わざとこの場所に造った」
という面白い説があります。
しかし、この説を裏づける史料は見つかりません。
土地の成り立ちをたどると、山谷という町のかたちが、また少し見えてきます。



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