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三ノ輪と山谷を結んだ「音無川」の水路と「浄閑寺」 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

三ノ輪と山谷を結んだ「音無川」の水路と「浄閑寺」

水が結んでいた町

三ノ輪の大関横丁あたりを歩いていた時、ご年配の男性から
「浄閑寺(じょうかんじ)は、どこでしょうか」
と聞かれました。

それまでは
「三ノ輪の方に、遊郭で亡くなった女性を弔ったお寺がある」
という程度の認識しかなかったのです。

iPhoneでGoogleマップを開き、浄閑寺の場所を説明。
その男性の方は、頭を下げて、丁寧にお礼を言い、去っていきました。

「浄閑寺」は、大関横丁から少し歩いた、荒川区南千住にあるお寺です。

ブログ記事「大関横丁から紐解く「三ノ輪」の由来と歴史」で、三ノ輪と山谷は一本の水路でつながっていたことを書きました。
その水の流れは、浄閑寺の前を通るのです。
今回、門の外からご本堂に手を合わせ、その周りを歩いてみました。

浄閑寺近くの「日光街道(国道4号線)」
浄閑寺近くの「日光街道(国道4号線)」
浄閑寺の門
浄閑寺の門
浄閑寺の境内
浄閑寺の境内

音無川と日本堤

浄閑寺の前に、荒川区教育委員会の「音無川と日本堤」という説明板があります。
田端、日暮里、金杉を流れ、三ノ輪橋の下をくぐり、浄閑寺の西側に沿って、山谷堀をへて、隅田川へと注いでいたという音無川(おとなしがわ)。
音無川はもともと、王子で石神井川から分かれた川でした。
今は暗渠(あんきょ)になっていますが、明治の終わり頃までは、農作物を育てるために田畑へ人工的に供給する「灌漑用水(かんがいようすい)」として使われていたそうです。

この音無川に沿って、三ノ輪から、現在の浅草七丁目にあたる聖天町(しょうでんちょう)まで続く土手がありました。
この土手が「日本堤(にほんづつみ)」です。
別名「吉原土手」とも言われています。
安藤広重氏の「名所江戸百景」にも描かれ、新吉原へ向かう人々で、にぎわった土手でした。

現在、土手そのものは残っていません。
浄閑寺の前の三叉路の、最も南寄りの道路が、その名残なのだそうです。

「三ノ輪」「日本堤」「山谷」「新吉原」の土地は、一本の水の流れで結ばれていました。
低い土地を水から守るために堤を築き、その堤が道となり、人が行き交う。
水と土手と道が、この町のかたちを作っていたのです。
音無川は見えなくなりましたが、日本堤は地名として残りました。

門前の通りには、音無川と日本堤の説明板が設置されている
門前の通りには、音無川と日本堤の説明板が設置されている
音無川と日本堤の説明板
音無川と日本堤の説明板
静かな浄閑寺の周辺
静かな浄閑寺の周辺

投込寺と呼ばれた浄閑寺

浄閑寺は、その水の流れのほとりに建っています。
門のわきに、荒川区教育委員会のもう一つの説明板がありました。
これによると、浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院(えいほうざんせいこういん)と号します。

安政2年(1855年)に大地震が起きました。
その地震で、新吉原の遊郭にいた女性たちも、多く亡くなったのです。
そして「投込寺(なげこみでら)」とも呼ばれた浄閑寺へ葬られました。

花又花酔(はなまたかすい)氏という方の川柳に
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
と詠まれています。

境内に「新吉原総霊塔」が建てられていました。
亡くなった方々の名を記した過去帳。
寛保3年(1743年)から大正15年(1926年)にいたる十冊の過去帳が、今も伝えられています。

また、作家の永井荷風(ながいかふう)氏は、しばしばこの寺を訪れました。
その縁で、永井荷風氏の詩碑も建てられています。

三ノ輪から続く土地の歴史。
浄閑寺のまわりには、積み重なっていました。
水の流れがあり、土手が築かれ、人が行き交い、そして眠る人がいる。
水の流れは見えなくなっても、町のかたちは、今も昔の面影を残しています。

門前には、お地蔵様と浄閑寺の説明板がある
門前には、お地蔵様と浄閑寺の説明板がある
浄閑寺の説明板
浄閑寺の説明板
門前のお地蔵様
門前のお地蔵様
門の内側にある石碑
門の内側にある石碑
境内にある仏像を納めた六角の堂
境内にある仏像を納めた六角の堂
静かな浄閑寺の周辺
静かな浄閑寺の周辺

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