浅草の国際通り。
観光客でにぎわう浅草寺から、少し西へ。
ホテルやビルが立ち並ぶ、車通りの多いこの通りに、ふと目を引く、鮮やかな朱色の鳥居があります。
国際通りの片隅に佇む、江戸からのお稲荷さん.
感應稲荷神社(かんのういなりじんじゃ)です。

大きなビルとビルの、ちょうど谷間(たにま)のような場所に、その神社はあります。
うっかりすると、通り過ぎてしまいそうな、小さなお社(やしろ)。
けれど、一歩、鳥居をくぐると、そこには通りの喧騒(けんそう)とは別の静かな時間が流れています。
ビルの谷間の、静かな境内
朱色の鳥居を抜けると、短い石畳の参道(さんどう)が、まっすぐお社へと続いています。


参道の両脇には、青々とした植え込み。
その奥に、瓦屋根(かわらやね)と、木造のお社が構えています。
お社の前には、一対(いっつい)のお狐(きつね)様の像。
稲荷神社の、お使いです。
首に巻かれた赤い前掛けが、よく手入れされていることを物語っています。

ビルに囲まれた、わずかな空間。
けれど、その中に、鳥居、参道、狐、お社と、神社に必要なものが、ぎゅっと、大切に収められています。
都会の真ん中に、こうして昔ながらのお社が守られている。
そのことに、まず、心を打たれます。



大手町から浅草へ 遷り続けた歴史
この感應稲荷神社、その歴史をたどると、意外なほど、古く、そして数奇(すうき)なものです。
創建(そうけん)された、はっきりとした年は、分かっていません。
けれど、古い記録によれば、もともとは、今の千代田区大手町(おおてまち)のあたり。
当時「芝崎(しばさき)」と呼ばれた土地に鎮座(ちんざ)していたと伝えられています。
大手町といえば、今は日本を代表するビジネス街。
そんな場所に、かつて、このお稲荷さんの源(みなもと)があったのです。
その後、天正19年(1591年)に、いちど本銀町(ほんしろがねちょう)へ遷(うつ)ります。
このころから「感應稲荷明神(かんのういなりみょうじん)」と呼ばれるようになったといいます。
さらに、文禄元年(1592年)、明暦3年(1657年)と、遷座(せんざ)を重ね、ようやく、この浅草の地に落ち着きました。

大手町から、本銀町へ。
そして、浅草へ。
まるで、江戸の町の広がりとともに、このお稲荷さんも、居場所を移してきたかのようです。
その長い道のりの果てに、今、この国際通りの一角で、私たちを見守ってくださっている。
そう思うと、小さなお社が、ずいぶんと、大きなものに見えてきます。
幾多の災いを、越えて
浅草の歴史は、災いの歴史でもありました。
関東大震災。
そして、東京大空襲。
浅草の町は、幾度(いくど)も、焼け野原になりました。
この感應稲荷神社もまた、そうした災いの中で、社殿を失ったことがあると伝えられています。
けれど、そのたびに、氏子(うじこ)の人々、この土地に暮らす人々の、篤(あつ)い信仰によって、お社は、再び建て直されてきました。


お社を囲む石の玉垣(たまがき)には、たくさんの名前が刻まれています。
お社を支え、守ってきた、地元の人々の名前です。
一つひとつの名前が、この小さなお稲荷さんが、どれほど地域の人々に愛されてきたかを、静かに語っています。
神社は、神様だけで続くものではありません。
それを大切に守る、人の手があってこそ。
この玉垣は、そのことを、教えてくれます。
おわりに
浅草寺の華やかさとは、また違う。
国際通りの片隅に、ひっそりと、けれど確かに、江戸からの時を刻んできた、感應稲荷神社。
大手町から遷り、幾多の災いを越え、今も、地元の人々に守られて、この場所に佇んでいます。
浅草を訪れることがあれば、少しだけ足をのばして、この朱色の鳥居をくぐってみてください。
ビルの谷間の、静かな境内(けいだい)で。
江戸から続く祈りの時間に、そっと、触れることができるはずです。


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