Twitterでも山谷の暮らしを発信中です:
フォロー @sanya_tokyo
2万発の夜空に想う隅田川花火大会 | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

2万発の夜空に想う隅田川花火大会

隅田川の花火は、江戸の頃から続いています。
今年(2026年)は7月25日(土)に、第49回の隅田川花火大会が開かれました。
山谷堀公園の吉野通りから、隅田川花火大会の花火を見ることができたのです。
今回は、この花火がどのように始まり、どのように今日まで続いてきたのかを、たどってみました。

山谷堀公園吉野通りから見た隅田川花火大会の花火
吉野通りの木々の間から見えた花火

始まりは、江戸の「両国川開き」

隅田川花火大会の起源は、享保(きょうほう)18年(1733年)5月28日に催された「両国(りょうごく)川開き」にさかのぼると伝えられています。
8代将軍・徳川吉宗氏の時代です。
前の年、享保17年(1732年)には大飢饉が起こり、江戸では疫病も流行して、多くの人が亡くなりました。
その死者を供養し、災いを除くことを願って、隅田川のほとりで「川施餓鬼(かわせがき)」という法会が催されます。
翌年の川開きの日には、水神祭(すいじんさい)とあわせて花火が打ち上げられました。
これが、今の花火大会のもとになったと言われています。

ただ、この由来については、別の見方も示されています。
明治の中頃から昭和の初めにかけて、少しずつ語られるようになった話ではないか、という指摘です。
はっきりした記録が残っているわけではない、ということですね。

マンションの脇に上がる赤と緑の花火
夜空に色とりどりの花火が広がります

「たまや〜、かぎや〜」と競い合った花火師

江戸時代、両国は夕涼みの名所となりました。
川開きには大勢の人が集まり、その様子は錦絵や「江戸名所図会」などの地誌にも描かれています。
花火を手がけたのは、「鍵屋(かぎや)弥兵衛(やへえ)」と「玉屋(たまや)」という花火師でした。
両者が競い合って打ち上げたことから、「たまや〜、かぎや〜」という掛け声が生まれたと伝わります。

大きく開いた金色の花火
大輪の花火が、夜空いっぱいに

一度は途絶え、昭和53年に復活

両国の川開きと花火は、長く江戸・東京の年中行事として続きました。
ただ、その歩みは平坦ではありません。
明治維新の頃、そして第二次世界大戦の時期には、一時途絶えています。

戦後に復活したものの、昭和36年(1961年)を最後に、また途切れてしまいます。
高度経済成長期の隅田川は水質の汚れがひどかったためです。

そして昭和53年(1978年)、水質の改善と護岸の整備が進んだことを受けて、名前を「隅田川花火大会」と改めて復活しました。
今の「第1回」は、この年にあたります。

近年では、新型コロナウイルスの影響で3年続けて中止となり、令和5年(2023年)に4年ぶりの開催となりました。
現在は、桜橋(さくらばし)から言問橋(ことといばし)の間に第一会場、駒形橋(こまがたばし)から厩橋(うまやばし)の間に第二会場が設けられています。

打ち上げ数は、あわせて約2万発。
第一会場は、山谷や橋場のあたりから、そう遠くありません。
江戸の頃、この花火は亡くなった人を供養するために上げられたと伝えられています。
来し方(こしかた)を知って見上げると、また違う夏になるかもしれません。
(ブログ記事「隅田川のカミソリ堤防」を参考)

複数の花火が重なって夜空を彩る様子
次々と打ち上がる花火

ご感想・思い出などお寄せ下さい

タイトルとURLをコピーしました