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【泪橋と思川(4)】南の刑場・鈴ヶ森刑場とは | 生まれも育ちも東京の山谷 -山谷は日本三大ドヤ街のひとつです-

【泪橋と思川(4)】南の刑場・鈴ヶ森刑場とは

※ この記事は「泪橋と思川(4)」です。前編「泪橋と思川(3)」はこちら

立会川駅から「涙橋」こと浜川橋へ

江戸の南にあった「鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)」は、現在、どのようになっているのでしょうか。

鈴ヶ森刑場は、品川区にあります。
最寄り駅は、京浜急行電鉄(京急)本線の大森海岸駅(おおもりかいがんえき)。
そして、品川区の「涙橋」こと「浜川橋(はまかわばし)」の最寄り駅は、京浜急行電鉄(京急)本線の立会川駅(たちあいがわえき)になります。

京浜急行電鉄(京急)本線「立会川駅」入口
京浜急行電鉄(京急)本線「立会川駅」入口
駅を出た左手には「立会川龍馬通り繁栄会」の横断幕が見える
駅を出た左手には「立会川龍馬通り繁栄会」の横断幕が見える
駅前にある高架下の自転車置き場
駅前にある高架下の自転車置き場
駅を出て右へ向かい「立会川商店街」を出ると国道15号線
駅を出て右へ向かい「立会川商店街」を出ると国道15号線

今回、浜川橋から鈴ヶ森刑場までの道のりを辿るため、立会川駅で下車しました。
京急本線が走る立会川駅の高架下には、広い駐輪場が設置。
駅を出ると立会川商店街があり、すぐ側に国道15号線があります。

立会川商店街から国道15号線を挟んで「立会川西商店街」がある
立会川商店街から国道15号線を挟んで「立会川西商店街」がある

駅から国道15号線を歩いて、まず、浜川橋へ。
国道15号線を、たくさんの大型車が走っていました。
途中に「立会川」が流れ、その上に「立会川橋」があります。
そのまま、まっすぐ歩くと、競馬場通りに出ました。
競馬場通りを前に、左へと曲がります。
すると見えてくる旧東海道。
競馬場通りから、鈴ヶ森刑場の逆方向へと、旧東海道を歩きます。
江戸時代の京都と江戸を結ぶ街道とあって、至るところにある石柱。
この旧東海道を、立会川が流れる方へと戻ると、見えてきました。
「浜川橋」です。

京急本線と並ぶ国道15線の途中に「立会川橋」がある
京急本線と並ぶ国道15線の途中に「立会川橋」がある
立会川橋から見た「立会川」
立会川橋から見た「立会川」
「競馬場通り」から「旧東海道」を立会川へ戻ると「浜川橋」がある
「競馬場通り」から「旧東海道」を立会川へ戻ると「浜川橋」がある
品川の「涙橋」である浜川橋
品川の「涙橋」である浜川橋
今の浜川橋は、1934年(昭和9年)に架け替えられた
今の浜川橋は、1934年(昭和9年)に架け替えられた
江戸時代の1651年に「鈴ヶ森刑場」が設けられた際、罪人と親族が涙を流して別れた場所の浜川橋
江戸時代の1651年に「鈴ヶ森刑場」が設けられた際、罪人と親族が涙を流して別れた場所の浜川橋
浜川橋こと涙橋の由来の説明版
浜川橋こと涙橋の由来の説明版

品川の「涙橋(なみだばし)」こと、浜川橋。
鈴ヶ森刑場へ向かう罪人を、その家族が涙を流して見送った橋。
現在、浜川橋の周囲は、落ち着いた住宅街となっています。
それでは、浜川橋から鈴ヶ森刑場へと歩いてみましょう。

立会川は、もともと目黒区碑文谷の湧水を源とし、湿地や田畑の間を縫うように東京湾へ注いでいた自然の小河川(農業用水や生活用水に使われる川)であった
立会川は、もともと目黒区碑文谷の湧水を源とし、湿地や田畑の間を縫うように東京湾へ注いでいた自然の小河川(農業用水や生活用水に使われる川)であった
立会川の名の由来は、大井村の「立会」の地を流れていたことや、かつて川の近くで野菜などの売買の「立会い」が行われたこと、あるいは「滝合川(たきあいがわ)」がなまったなどの諸説あるほか、地元の別名として「関川」とも呼ばれる
立会川の名の由来は、大井村の「立会」の地を流れていたことや、かつて川の近くで野菜などの売買の「立会い」が行われたこと、あるいは「滝合川(たきあいがわ)」がなまったなどの諸説あるほか、地元の別名として「関川」とも呼ばれる
立会川は、昭和20年代(1950年代前半)頃まで、自然豊かな美しい水質を保ってフナやドジョウ、ザリガニなどが棲む、とてもきれいな小川であった
立会川は、昭和20年代(1950年代前半)頃まで、自然豊かな美しい水質を保ってフナやドジョウ、ザリガニなどが棲む、とてもきれいな小川であった

浜川橋から鈴ヶ森刑場跡へ

浜川橋から競馬場通りを渡ると、鈴ヶ森刑場を案内する石柱もありました。
鈴ヶ森刑場へと続く旧東海道の道は、まっすぐの一本道。
車の往来は、そんなになかったです。
近くには「しながわ区民公園」や学校もありました。

浜川橋から旧東海道を通って鈴ヶ森刑場遺跡へ向かう途中に競馬場通りがある
浜川橋から旧東海道を通って鈴ヶ森刑場遺跡へ向かう途中に競馬場通りがある
鈴ヶ森刑場遺跡へは旧東海をまっすぐ歩く
鈴ヶ森刑場遺跡へは旧東海をまっすぐ歩く
旧東海道の所々にある石柱
旧東海道の所々にある石柱
旧東海道は、江戸時代の日本橋から京都の三条大橋までを結ぶ、全長約490km・宿場数53(東海道五十三次)の主要な街道
旧東海道は、江戸時代の日本橋から京都の三条大橋までを結ぶ、全長約490km・宿場数53(東海道五十三次)の主要な街道
日本橋から数えて一番最初の宿場町が品川宿
日本橋から数えて一番最初の宿場町が品川宿
南の入り口である旧東海道沿いに設けられた鈴ヶ森刑場の遺跡に隣接する「大経寺」
南の入り口である旧東海道沿いに設けられた鈴ヶ森刑場の遺跡に隣接する「大経寺」

浜川橋から歩いて10分ちょっと、15分かからないくらいで、鈴ヶ森刑場の跡地に到着します。
浜川橋から家族と別れた後、すぐ処刑だったのですね。

正面右の大きな石塔は「南無妙法蓮華経」の七文字を髭題目(ひげだいもく)で刻んだ題目塔。池上本門寺の第25世・日顗(にちぎ)の筆と伝えられ、元禄11年(1698)か元文6年(1741)に建てられた。左側には「鈴ヶ森遺跡」の石柱や、受刑者を供養する碑が並んでいる
正面右の大きな石塔は「南無妙法蓮華経」の七文字を髭題目(ひげだいもく)で刻んだ題目塔。池上本門寺の第25世・日顗(にちぎ)の筆と伝えられ、元禄11年(1698)か元文6年(1741)に建てられた。左側には「鈴ヶ森遺跡」の石柱や、受刑者を供養する碑が並んでいる
「旧東海道」の案内標識のすぐ脇に「東京都史蹟 鈴ヶ森刑場遺跡」の標柱が立っている。刑場は江戸の出入口にあたる街道沿いに置かれていた
「旧東海道」の案内標識のすぐ脇に「東京都史蹟 鈴ヶ森刑場遺跡」の標柱が立っている。刑場は江戸の出入口にあたる街道沿いに置かれていた
頭上を高架道路が走り、大型トラックが行き交う交差点。第一京浜の拡幅で、刑場は当時の姿をとどめていない
頭上を高架道路が走り、大型トラックが行き交う交差点。第一京浜の拡幅で、刑場は当時の姿をとどめていない
マンションや電柱、国道に囲まれた一角に、屋根付きの標柱がひっそり立っている
マンションや電柱、国道に囲まれた一角に、屋根付きの標柱がひっそり立っている

国道15号線と日本橋芝浦大森線が交わるところに「鈴ヶ森刑場遺跡」が建っていました。

頂に宝珠をのせた屋根付きの標柱。周りの草木に埋もれるように立っている
頂に宝珠をのせた屋根付きの標柱。周りの草木に埋もれるように立っている

亡くなった人々を供養するお地蔵様や石碑も建てられています。

石柵に沿った道の先に「鈴森山 大経寺」の看板が見える
石柵に沿った道の先に「鈴森山 大経寺」の看板が見える
「馬頭観世音」と刻まれた石碑、手水鉢、白い地蔵像が、緑に囲まれて静かにたたずんでいる
「馬頭観世音」と刻まれた石碑、手水鉢、白い地蔵像が、緑に囲まれて静かにたたずんでいる
木々の間に残る古い石碑
木々の間に残る古い石碑

「火炙台(ひあぶりだい)」や「磔台(はりつけだい)」などの「遺構(いこう)」もありました。
「遺構」とは、昔の建物や建造物といった人間が造った移動できない不動産的なもののことです。

手前は「奉」と刻まれた石柱。奥に見える題目塔の側面には「衆罪如霜露 慧日能消除(多くの罪は霜や露のようなもので、仏の智慧の光で消し去ることができる)」という経文が刻まれている。草むらの中に金網をかぶせた石組みがあり、首洗いの井戸と伝わるものとも見える
手前は「奉」と刻まれた石柱。奥に見える題目塔の側面には「衆罪如霜露 慧日能消除(多くの罪は霜や露のようなもので、仏の智慧の光で消し去ることができる)」という経文が刻まれている。草むらの中に金網をかぶせた石組みがあり、首洗いの井戸と伝わるものとも見える
鈴ヶ森刑場は慶安4年(1651年)、品川宿の南の東海道沿いに開かれた。元禄8年(1695年)の検地では、間口が約40間(約72m)、奥行きが9間(約16m)。芝居で知られる人物もここで処刑されたと伝えられている。右は「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」の石柱
鈴ヶ森刑場は慶安4年(1651年)、品川宿の南の東海道沿いに開かれた。元禄8年(1695年)の検地では、間口が約40間(約72m)、奥行きが9間(約16m)。芝居で知られる人物もここで処刑されたと伝えられている。右は「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」の石柱
東京都教育委員会の説明板「鈴ヶ森遺跡」
東京都教育委員会の説明板「鈴ヶ森遺跡」
左は「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」の石柱、右は「南無妙法蓮華経」の髭題目を刻んだ題目塔。手前には「二十五番 大経寺」の標柱と、しながわ百景「鈴ヶ森刑場跡と大経寺」の案内板が立っている。しながわ百景は昭和62年(1987年)に選ばれた
左は「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」の石柱、右は「南無妙法蓮華経」の髭題目を刻んだ題目塔。手前には「二十五番 大経寺」の標柱と、しながわ百景「鈴ヶ森刑場跡と大経寺」の案内板が立っている。しながわ百景は昭和62年(1987年)に選ばれた
右の題目塔の側面には「衆罪如霜露 慧日能消除」の経文が刻まれている。中央奥にある石柱は「鈴ヶ森刑場受刑者之墓」
右の題目塔の側面には「衆罪如霜露 慧日能消除」の経文が刻まれている。中央奥にある石柱は「鈴ヶ森刑場受刑者之墓」
「鯉塚」と刻まれた石碑と、屋根付きの石の祠が並ぶ
「鯉塚」と刻まれた石碑と、屋根付きの石の祠が並ぶ
刑場で実際に使われた台石が残されている。左の四角い穴のある石が磔(はりつけ)台、右の丸い穴のある石が火炙(ひあぶり)台。それぞれの後ろに説明板が立っている
刑場で実際に使われた台石が残されている。左の四角い穴のある石が磔(はりつけ)台、右の丸い穴のある石が火炙(ひあぶり)台。それぞれの後ろに説明板が立っている
多くの罪人がこの台の上で処刑された。真ん中の穴に一丈(約3m)余りの角柱を立て、その上部に罪人を縛りつけて槍で刺したと記されている(鈴ヶ森史跡保存会)
多くの罪人がこの台の上で処刑された。真ん中の穴に一丈(約3m)余りの角柱を立て、その上部に罪人を縛りつけて槍で刺したと記されている(鈴ヶ森史跡保存会)
火あぶりの刑を受けた人は皆この石の上で処刑された。真ん中の穴に鉄柱を立てて罪人を縛りつけ、足元に薪を積んで焼いたと記されている(鈴ヶ森史跡保存会)
火あぶりの刑を受けた人は皆この石の上で処刑された。真ん中の穴に鉄柱を立てて罪人を縛りつけ、足元に薪を積んで焼いたと記されている(鈴ヶ森史跡保存会)

鈴ヶ森刑場で処刑された中には、小説や舞台、映画などの登場人物で見たことのある名前も。

供養塔の前には線香台が置かれ、訪れた人が手を合わせられるようになっている。線香は1束50円で、火をつけるためのカセットコンロも置いてある
供養塔の前には線香台が置かれ、訪れた人が手を合わせられるようになっている。線香は1束50円で、火をつけるためのカセットコンロも置いてある
「一切業障海」と刻まれた石碑の前で、ピンクのサルスベリが咲いている。右奥には石の祠があり、ザクロも実をつけていた
「一切業障海」と刻まれた石碑の前で、ピンクのサルスベリが咲いている。右奥には石の祠があり、ザクロも実をつけていた

刑場のすぐ近くに「大経寺(だいきょうじ)」という寺院がありました。
こちらの寺院は、鈴ヶ森刑場で処刑された人々を供養するために建てられたそうです。

大経寺の境内には当時の歴史を物語る遺構がある
大経寺の境内には当時の歴史を物語る遺構がある
江戸時代の開設当初は名前のない小さな「堂宇(どうう)」で、明治4年(1871年):「旭松庵(きょくしょうあん)」となり、昭和17年(1942年)に「大経寺」となった
江戸時代の開設当初は名前のない小さな「堂宇(どうう)」で、明治4年(1871年):「旭松庵(きょくしょうあん)」となり、昭和17年(1942年)に「大経寺」となった

南の刑場であった鈴ヶ森刑場。
今は、車の往来が激しい国道と、落ち着いた住宅街に囲まれています。

「二十二番 仲町稲荷神社」の標柱で「左 なみだ橋を経て鈴ヶ森」と刻まれている。なみだ橋は立会川にかかる浜川橋の通称。刑場へ送られる罪人が、家族と最後の別れをした橋と伝えられている
「二十二番 仲町稲荷神社」の標柱で「左 なみだ橋を経て鈴ヶ森」と刻まれている。なみだ橋は立会川にかかる浜川橋の通称。刑場へ送られる罪人が、家族と最後の別れをした橋と伝えられている

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