子供が遊べなかった公園
山谷に、玉姫公園(たまひめこうえん)という公園があります。
玉姫公園が開園したのは、昭和5年(1930年)6月30日。
関東大震災のあとの帝都復興計画によってつくられた、52か所の小公園のひとつです。
台東区の資料によると、開園した当時は、中央に楕円形の広場があり、藤棚やコンクリート造りの休憩所、テラスが設けられていました。
東側には児童の遊び場があり、砂場、滑り台、ブランコ、シーソーなどの遊具も置かれていたそうです。
それから50年ほどたった昭和50年代の玉姫公園は、寂れた公園でした。
手で回すと、その場でくるくると回転する、UFOのような形の遊具もあったかもしれません。
イメージするなら、手動で回す遊園地のコーヒーカップのような乗り物。
また、小さな滑り台や、動物のかたちをして、下のバネで前後にゆれるスプリング遊具もありました。
ただ、日本堤公園(にほんづつみこうえん)にあったような大きな遊具はなかったのです。
近くの日本堤公園や吉原公園(よしわらこうえん)と比べると、その少なさが分かりました。
日本堤公園には、鉄棒でつくられた、お城のような建物がありました。
円筒(えんとう)の形で、高さは2階か3階ほど。
その中のらせん階段をのぼって、滑り台からおりることができたのです。
さらに公園内には、コンクリートでできた、大きなラクダの遊具もありました。
ラクダが座っているような形で、子供たちはその背にのぼって遊んだものです。
砂場もあり、ブランコもありました。
日本堤公園から土手通りをこえると、そこに吉原公園があります。
吉原公園にも、子供が遊べる遊具のブランコ、回転ジャングルジムもありました。
玉姫公園には、遊べる遊具がほとんどなく、子供たちの活気ある声もありません。
当時と今の公園内は、様子が違うと思います。
それでも子供が遊ぶ姿はなく、あるのは「もの悲しさ」だったのです。
違いは、遊具だけではありません。
日本堤公園と吉原公園には、屋台でお菓子を売る方がいました。
子供たちは、その屋台から、お菓子を購入。
ただ、玉姫公園には、その屋台も来なかったように思います。
遊ぶものがなく、屋台もない。
玉姫公園は、子供の遊べる「公園」という場所よりも
「寂しい広場だった」
というのが正直なところです。
ちなみに、日本堤公園は、旧・待乳山小学校(まつちやましょうがっこう。現在の東浅草小学校)の第二校庭のあたりまで、公園でした。
しかし、その半分ほどが、小学校の校庭に。
その後、さらに子供が遊ぶ遊具も撤去され、今は高齢者が過ごすための場所のようになっています。
隣にあった蓬莱中学校
玉姫公園の近くには、台東区立蓬莱中学校(ほうらいちゅうがっこう)がありました。
蓬莱中学校は、火災などで移転を繰り返し、山谷の地に来たと聞いています。
生徒が体育の授業で校庭にいると、校舎と道路を仕切る柵(さく)を掴んで、柵ごしに
「おい! おい!」
と声をかけてくる人がいました。
また、蓬莱中学校のプールは、玉姫公園と隣接する場所にあったのです。
校舎とプールは、一般道路を挟んでいます。
そのため、プールの授業がある時は、生徒は一度校舎を出て、外の道路を歩き、プールのある建物へ移動しなければなりません。
女子生徒は、校舎の更衣室で水着に替え、大きなバスタオルで体を隠し、裏門を出て、道路を渡り、プールのある建物へ入ります。
当時の女子生徒が
「あの道を出ないといけないのが怖かった」
と話していました。
その蓬莱中学校は、平成14年(2002年)に今戸中学校と統合し、桜橋中学校となりました。
校舎のあった場所は、今は高齢者の施設になっています。
公園も、学校も、時間とともに姿を変えました。


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